他人の目を気にしないで書くということ 〜澤田英輔『君の物語が君らしく』
澤田英輔『君の物語が君らしく 自分をつくるライティング入門』岩波書店、2024年
現在は軽井沢風越学園、以前は筑波大学附属駒場中高(筑駒)におられた澤田英輔さん。筑駒でライティングワークショップやリーディングワークショップをやっておられたときから何度か実践の様子を見に行かせていただいてきた。「あすこまっ!」ブログのあすこまさんとしても知られる。
そのあすこまさんが、副題にある通り、ライティング、昔の言い方で言えば「作文」について、10代の読者に向けて語った本。
さすがあすこまさん、いい本つくるなあ。
リアルの場でのあすこまさんの語りと同様、押しつけがましくなく、すっと入ってくる文章。なのに思考をかき立てられる。
たまたま、とある原稿の関係で、先月、ライティング関係の2冊の本を読んだ(いずれも今回のあすこまさんの本でも触れられている)。
はやみねかおる『めんどくさがりなきみのための文章教室』飛鳥新社、2020年
ピーター・エルボウ『自分の「声」で書く技術』英治出版、2024年
あすこま本とはやみね本は、いずれも若い読者に宛てたもので、書くことを楽しむことを大事にする点は共通。が、はやみね本は、「うまくなる」を前面に出す点が違う。
あすこま本とエルボウ本は、他人の目、あるいは自分の内なる他人の目にとらわれないことを重視する点が共通する。一方、あすこま本は、エルボウ本ほど自然任せ(といっては語弊があるかもしれないが)にはしない。書くプロセスやそこでのエクセサイズについての提案が本書には多数盛り込まれている。
あすこま本の問題意識。
そしてあすこま本は、
ことを追究する。
あすこまさんは子どもの頃から書くことが得意だったこと、そうであるからこそ先生に気に入られるものを学校では書いて、けれどもそれに嫌気が差して、それとは別に夜な夜な自分のためだけの文章を書いていたことが、本書で綴られる。
私自身の場合を振り返ってみると、私は子どもの頃、書くのが苦手だった。少なくとも、作文を得意だと思ったことはなかった。「文章を書けるようになりたい」、いや、「文章を書けたらかっこいい」みたいなほわっとしたあこがれはあったが、だからといって毎日文章を書いたり書こうとしたりしていたわけでもなかった。
自分のなかで書くことへの苦手意識が比較的和らいでいった一つのきっかけは、大学院生時代に予備校で担当した小論文指導だったように思う。大学入試の小論文に関するノウハウ本なども大量に読み、生徒の答案も大量に読み、自分でも同じ課題で書いてみるなかで、小論文の「評価」のカラクリがつかめたというか、「あ、これくらいのもんだったら、いくらでも書けるやん」と腑に落ちる経験をした。「他人の目」がどういうものかをしっかり経験したからこそ、それを過度に恐れずに、自分が書いたり生徒に書かせたりすることができるようになった気がする。
だから、「書くことを、自分の手に取り戻す」という発想そのものは、私もあすこまさんと同じなのだけれど、そこにいたる筋道はきっと違ったのだろう。
あすこまさんの場合は、
ということだ。
本書を読んでいていちばん心が震えたのは、「えっ、そこ!?」と言われるかもしれないが、「ナコ」による「モンスター」の五行詩を紹介したあとのあすこまさんのコメント、
だった。
読み手によるこうした受け止め、意味付け。
「そうそう、そうだよなあ!」と、第三者である私も感じるし、多分、「ナコ」さん本人がそれを聞いていたら、「分かってもらえた」感が得られるというか、シンプルに、すごくうれしいんじゃないかと思う。
もちろん、終章に出てくる「ナナミさん」の文章に対する、あすこまさんの、
も同様。
こんなふうに読んでくれる、こんなふうに受け止めてくれる読者がいるからこそ、書き手が、書くことを好きになり、ますます書きたいと思うようになり、ということは当然起こるだろう。きっとあすこまさんは、これまでの実践のなかで、そうしたことを(時には無意識的に)引き起こしてきたに違いない。
そのことと、「他者の視点から遠く離れて、たった一人で、自分しか読まない文章を書」くということとの関係はどのように捉えられるのか。
本書でもこのテーマは、
という形で扱われているのだが、機会があれば、あすこまさんからさらに話を聞いてみたいところ。
いずれにせよ、本書は、国語で「書くこと」の指導をどうしようという人はもちろん、文章を書くことや探究に関心をもつ人全般に是非とも読んでもらいたい1冊です!
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