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井戸の底に向かって

久しぶりに少し意識の下のほうに潜る文章を書いてみたいと思います。知らぬ間に500人以上の人がフォローしてくれているので、ちょっとした自己紹介のようなものです。

こういうときは改行が少なくなって読みづらいと思いますが、ご容赦ください。明日から2日間四国に行くので、海の空気を胸いっぱいに吸い込んで、また改行を増やしますね。

一応、フォトグラファーということになっています。でも気持ち的には文学研究者と思っています。それは生きてきた大半を文学と共に過ごしてきたからだし、多分僕の精神を形作る基盤は文学的な文脈によって形成されたという、なんというか、ちょっとした矜持みたいなものがあるからです。でも、研究者じゃないですね。言葉を読むのが好きな人間、多分基本はそれです。だから、たとえ写真の仕事が舞い込んできたとしても、僕は写真という領域からいつも半歩ずれる形で自分のアイデンティティを形成しようとしています。多分それは、一種の恐れもあるからでしょう。

言葉に親しんできたからこそ、言葉の持っている不明瞭な部分、境界線が滲んで矛盾する解釈がせめぎあう位相があることに対して敏感になりました。何か良いことを言ったつもりでも、必ずそこに誤解が生まれて悪意が読み取られる可能性が常に潜んでいることを、20代に痛い目を見た経験から、骨の髄まで知り尽くしています。世界は基本的に、誤解で成り立っている、僕の基本的な了解です。

そしてそれは結局のところ誰のせいでもなく言葉というメディアの持っている限界でもあり可能性でもあります。無限の伝達力と、それゆえの無限のエラー。一度生み出されたエラーは、「伝言ゲーム」のように、伝えられるごとにどんどんその偏差を拡大していく。我々はそうした世界の中で、日々少しずつ間違いを積み重ねて生きている、そんな風に思っております。

だから、できるだけ慎重に言葉を使います。あるいは一方、できるだけ適当に言葉を使います。無害になるように、一番大事な部分が露見しないように。できるだけ役立たずに見えるように普段は言葉を発するし、大事なときはできるだけ言葉ひとつひとつをしっかり使うようにギアを入れ替えるようになりました。捨てるために使う言葉と、しっかり拾ってもらうために使う言葉を、場合によって切り分けます。世界も人も基本的に僕に対して無関心であり、誰かに向けて放つ言葉は基本的には通じないものであることを忘れないよう心がけています。「自分のことを理解してもらえるという前提で話すのがおかしい」と、ある有名な研究者は言いました。僕もそう思います。どんな親しい人間にも、伝わり切らない。それどころか、僕自身でさえ僕の言葉を誤解しています。発した瞬間から、言葉は差延の中でその意味を拡散させ、変質させていく。発した当人が、それを受け取るまでの僅かな差であったとしても。僕らは自分自身の鏡像との永遠の断絶の中で、自分自身を常に取り逃します。他人ならなおさらです。

写真の世界に入った時、なんと明確で明快な場所なんだろうと思いました。写真、真実を写すもの。なるほど、確かにそうだと思いました。シャッターを押したら、そこに綺麗な写真が写っていて、それは真実以外の何物も入ってこない「純粋な」場所だと感動しました。しかしすぐにそれは完全な誤解だと判明します。むしろ写真もまた言葉と同じように解釈が入り乱れる、「事実」と「真実」と「思い込み」が錯綜するややこしい世界なのだと思い知ったのです。僕が見た世界と、あなたが見た世界。そこにある「差」は言葉によっても、また写真そのものによっても説明が出来ない、埋めることが出来ない断層であることを程なく僕は了解します。僕が見た「黄色」と、あなたが言う「黄色」はまったく違う色であることさえあると。時々だから、遠い遠いところから大きな声で、崖の向こうに呼びかけているような気がします。あるいは、深い深い底も見えないような井戸の底の暗闇に向けて、小さな声で。

決して声は届かないのかもしれません。でも僕はそれほど絶望しているわけでもなく、時々向こうの方から声が聞こえてくるような気がするときもあります。長い人生の中で何度かそういうことがありました。もしかしたらそれは、星新一の「おーいでてこーい」のように、かつて自分がどこかで叫んだ言葉なのかもしれないなとふと怖くなったりもしますが、少し自分の声とは響きもトーンも違う。混濁したノイズの中に、明確な意志を持った響きが聞こえる気がするときがある。僕がSNSをやったりnoteを書いたりするのは、多分、その音に向かって自分の位置を伝えようとしているのかもしれません。

そんな人間が、このnoteを書いています。

言葉がそうであるように、写真もまた届かない郵便物のようなものです。中身は入っているのかもしれませんが、宛先が間違った便箋。でもだからこそ逆に希望があると言うふうにも最近思っています。誰かに届けようと思っていたものが、別の誰かに届くのかもしれません。勿論それは、バートルビーの「宛先不明郵便」のように、どこか人知れぬ「写真の墓場」に行き着くだけかもしれませんが。

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