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40も超えて、ようやく「ともだち」という単語に感じていた気後れが薄れた話

小学校の頃はそこまで意識的ではなかったけど、中学とか高校になると「ともだち」と呼ばれる存在に対して、少し気後れするようなところがありました。その単語が要求する空気というか同調圧力というか、人格の一部を質に入れることでようやく成立する閉鎖性のようなものに、多分忌避感を感じていたのだろうと思うのです。

そういう「ともだち」たちと下校する時に、できるだけ横一列に並ばず、ちょっと一歩後ろか前に「ずれて」歩きたかったのは、多分僕の「最後の抵抗」だったのだろうなと思うのです。

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最近、大阪で友人と一緒に撮影をしました。友人といっても、普段一緒に遊ぶような相手ではなく、たまたま写真で知り合った友人。そして撮影といっても、完全に「案件」と言われる類のもので、クライアントも誰でも知っているような相手。友人が受けた案件を、彼がディレクションして、僕が撮影するという形です。

また、我々には共通の友人がいるのですが、その「共通の友人」もまた、僕にかつて一つ大きな案件を紹介してくれていて、でもそれだからといって何を要求するわけでもなく、普通に友人のままで、特別意識することなくいつも活躍を眺めています。

そんなことが最近とても多いのに気づきました。勿論僕も紹介してもらってばかりではなくて、紹介する側にも回ることがあります。そしてやっぱり、紹介するのは「友人」たち。

ふと気づくと、たくさんの仕事を友人たちとシェアしている。友人というべきなのか仲間というべきなのか、ちょっとわからない。でもかつて中学とか高校とかのときに感じてたあの居心地の悪い気後れは感じないような、そういう相手。その違いは何なんだろうと、今日ふと気になりました。そして答えは、多分、社会的な責任を個々にシェアしているからではないかという気がします。

僕が手を抜いたり気を抜いたりすると、僕だけではなく、その友人にもなんらかの金銭的、社会的な損害を与えることになる。大人になると、自分自身ではなく、相手に与える損害の方がしんどいものです。逆に言えば、僕に仕事を紹介してくれた友人たちは、僕が引き起こすかもしれない潜在的なリスクをちゃんと考えた上で、僕を信頼してくれたということなんですよね。

それは多分、かなりのものなはずです。そう、かなりのもの。

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勿論、そんな大層なことを言われたり仄めかされたりしたわけではないんです。大人になってから得たこういう友人や仲間たちは、サラッとしているし、いつもメッセンジャーでトークしなきゃいけないような「重たい」繋がりを要求するわけでもない。普段は存在さえ見えないときもあるくらい。そもそも僕自身、メッセンジャーやLINEが嫌いなので、普段は見ないようにしているくらいです。なので、普段は殆どお互いに何をしているのかさえよく知らない。生活の大半、何も関わりがない。気づけば数ヶ月ぶりに連絡を取るようなこともザラ。

でも個々に尊敬すべき資質と能力を持った彼らは、若い頃に感じていた「無理やり好意を寄せなきゃいけない」という同調圧力、「無理やり意見を統一しなきゃいけない」という子どもじみた同質性とは無縁で、僕がかつて「ともだち」という言葉に感じていた妙な息苦しさをほとんど感じさせないんですね。

なので、ようやく僕も最近は「友人」とか「仲間」という言葉を使えるようになりました。40代に入って、遅まきながら。こんな歳になっても、成長はするもんですね。

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