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Too much love will kill you(あるいは感度が高まり過ぎたときに起きるいくつかの事柄について)

「感度」というのはなかなか面白い尺度だと思っています。写真の世界に来て最初に面白いなあと思ったのは、絞りでもシャッターでもなく、ISO感度のシステムでした。

カメラを持たれてない方のために簡単に説明すると、ISO感度とは「光に対するカメラ側の感度」を表現する尺度です。現在のカメラはISO100から200がだいたい標準になってます。で、その標準の感度であるISO100がどういうものかというと、その感度で写真を撮影すると、一番色とかなんやかんやが綺麗に出るということになってます。専門的(ってほどでもないけど)に言うと、「ダイナミックレンジが広い」みたいないいかたをします。そして同時に、「最低感度」というふうにも表現されるように、ISO100は光に対して非常に鈍感にできています。それは、太陽の光が(一般相対性理論の命じるところにより)この世界ではほぼ無敵の強さを発揮するので、「標準」を、「一番鈍感」にせねばならぬというわけです。

さて、このISO感度、上げていくとどんどん光に敏感になっていきます。暗いところでも写真が撮れる様になっていきます。ただ、同時にダイナミックレンジは狭くなっていきます。つまり、「色の豊富さ」や「深さ」「階調」といったものが少しずつ失われていきます。それにシンクロする形で、写真のデータの質は感度が上がるに連れて少しずつ荒くなっていくわけです。少年漫画の必殺技みたいなトレードオフですね。大ダメージを与えられるけど、自分もなんかダメージ受けるみたいな。メガンテ系魔法。

センサーのサイズに従って、このISOの高い場所で「どんだけ耐えられるか数値」がおおよそ決まっていて、現状、カタログスペックではNikonのD5が確か312万とか化物みたいな数値を出していたはずで、お前それ暗視ゴーグルかよみたいな真っ暗でも、とりあえず「なにか写る」みたいな感じの写真が撮れます。

話を専門的なところから、話したいところへ。

ISO感度、面白いなと思ったのはこの点でした。つまり、光に敏感になればなるほど、画質は落ちるというトレードオフになっている点。「感度が上がる」ということは、本来「ひかり」を取り込むカメラにとってはいいことではあります。例えばISO400くらいだと、今のフルサイズだとISO100とぱっと見変わらないくらいの画像を出します。パワーとしてはすでにISO100よりも四倍も敏感になっているというのに!四倍界王拳でも、全然余裕で今のフルサイズカメラはこなしちゃうわけです。こうなると、画質劣化はそれほど被らないままに、シャッター速度だけが速くなって、ブレる危険性がなくなったり、若干暗い部屋で明るく写ったりと、「恩恵しか感じられない」レベルでパワーアップが得られるわけです。最高かよの世界ですね。最高でしかないかよ。

でもこれを例えば3200くらいまで上げる。あるいは6400、12800。界王拳表記するなら32倍、64倍、128倍です。こうなるとゴテンクスでもちょっとしんどいレベルです。どんどん「ひかり」に対して敏感になる一方、「くらやみ」にも敏感になってくる。一回パンチ(シャッター)を打つたびに、悟空が「うっ」とか言って呻くレベル。その結果、どうなるか。

光の情報がほぼ0に近いところにまで、センサーの目が敏感に「ひかり」を感じてしまうわけです。

こうなると「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のレベルです。そこにないはずのノイズが、感度が上がれば上がるほど、ちりちりと黒い場所に写るようになっていきます。そして102400, 204800, 409600, 819200と「感度」上がっていくうちに、センサーはついに上がりすぎた「くらやみ」への敏感さ故に、ノイズザラザラで元の形さえよくわからないような「写真」を作り出していきます。もやもやしたノイズがなにか別のものに見えたり・・・きゃー()

「感度」の話に戻りましょう。写真という機械だけではなく、実際のところこの「感度」という考え方は、人間の性質を説明するときにも大変示唆に富む見解を与えてくれるように思ってます。

例えば僕のような文学者は、基本文章の「てにをは」にすごく感度が高い状態になります。ほんの少しの助詞の間違いだったり、文章の「ねじれ」だったりに敏感すぎるほど敏感。あるいは言葉の多義的な意味合いに対しても常に全方位でアンテナを張り巡らせまくってます。あらゆる文章に対してISO感度150万くらいの感度で反応してしまうのが、文学研究者です。おかげでただの平たい文章に愛情や憎悪を読み取ってしまったり、裏なんてまったくない表現に企みや遠謀を感じ取ったり、そりゃまあ大変です。別に読めるのだからそのまま読みゃ良いのに気になっちゃう。

何百年も前の文章に響く「声」をなんとか読み取ろうなんて考えてると、それくらいの感度でもないと、作者や当時の人々の声は聞こえてこないわけですね。でも逆に、今世界に満ちている声に対して、この文章感度はいささか敏感にすぎる。あらゆる言葉のニュアンスを自動で読み取ってしまう。それはある意味、呪いに近いものです。だから僕は、SNSが苦手なんですね。あまりに喧しい。

今僕の話している「感度」は、すでに「比喩」としての感度なのですが、とりあえず世界のいろんなものを見つめる「感度」を、仮に100だとしましょう。カメラの標準と同じ数値に設定してみます。あまり磨かれていない目線、いい具合に鈍感さも兼ね備えていて、あらゆるものをゆったり見られる「感度」です。飽和することがなく、そこにあるものをそのように見る目線。レッセフェール。let it be.

ところで、ある専門的な分野での訓練を積んでいくと、否が応でもその分野での感度は高まるものです。文章にせよ、写真にせよ、何にせよ。そして人間は自分を「標準」と考えるので、例えば訓練と研鑽の中で感度12800に高まった目線で100の人たちを見ると、なんだか鈍感に見えます。100の人たちから見たらAもBも対して変わらないものが、12800の人たちの目には、かなり大きな差に見えたりする。

感度が高まるにつれて、わずかな差異の弁別性が高まるんですね。でもね、その代りに、「見えないもの」が見えてくる。カメラのセンサーが、見えないノイズまで「見て」しまうように。

でも、感度が高い人達は、その感度の高さが「普通」だと思っているので、自分が見ている「ノイズ」や「幽霊」が、実体だと思いこんでいる。そしてそれを見えない人たちに「なぜ見えないんだ!」と憤る。そして大体、感度の大きい人達の怒れる声が非常に大きいのが、この世界の習わしになっています。

さて、悲劇というのは(あるいは一周回って喜劇かもしれませんが)常に「盲信」と「盲目」から生まれるものです。そして最も根深い盲信、あるいは盲目とは「自分が正しく世界を見ている(知っている)」というふうに過信することであるというのは、二千年ほど前にソクラテスの指摘したところです。いやプラトンでしたか(いわずもがなですがソクラテスはプラトンですが)。

振り返ってみて、自分の感度の鋭さみたいなものを僕も盲信していたような傾向がありました。大体20代から30代前半の頃です。すべてが見えるような気がしていました。それがただの誤解で、自分が見たと信じていたものは、基本的に「幽霊」であり「ノイズ」であり、世界には存在していないか、あるいは存在していたとしても「誤差」範囲内のものであったというふうに知ったのは30代の中盤のころです。

「鈍感力」というのを意識し始めたのは、この頃からでした。ISO100の世界の、それほど派手さはないけれど、穏やかにいろいろなものが見える世界。暗い闇は「黒い闇」として撮る世界。そんな世界のことを意識し始めるようになったのは、カメラを触って以降の話でした。

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