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21世紀に「悪役」を作ることはすごく難しい(あるいは、PSYCHO-PASSはなぜ魅力的なのか)

【前説】
今日は久しぶりに「物語」についての話です。特に「悪役」について。魅力的な物語には、必ず魅力的な悪役が存在します。今回の記事では、「悪」がなぜ必要なのかという基本的な問いから話を起こして、現在「悪役」として最も魅力的な存在の一つを生み出したPSYCHO-PASSまでをざっと概括してみるのが狙いです。読んで頂く前に注意点がいくつか。

1.僕は文学研究者ではありますが、アニメは専門外なので頓珍漢なこと言ってたらごめんなさい。裏とりしてない感想文です。
2.PSYCHO-PASSの完全なネタバレを含んでいます。見てない人は注意してください。
3.進撃の巨人のネタバレもちょっと入ってます!!こちらも未読の方、ご注意ください!

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【1】近年の印象をまずざっと

最近の物語の傾向について昨日少し考えていました。それは主人公と悪役との同一性の問題です。すでにそれはセカイ系(2000年代冒頭から始まったモチーフ。個人の問題がいきなり「セカイの運命」と直結してしまうような物語群を指す。西尾維新などがその代表作家)の時代から進んでいた傾向でもありますし、もっと遡れば妖怪人間、デビルマン、寄生獣などにおいても「主人公と悪役」の関係性は表裏一体のものとして描かれています。

21世紀の今、その傾向はさらに進んでいると言えるでしょう。敵が完全に「自分とは違う存在」となると、そのような存在との対決は排除原理を含みこむことになります。それは「正義の暴走」に対して過敏な現代においてはおそらく流行らない設定だろうと思うのです。時代はむしろ逆の方向を望んでいて、この不備だらけで不公平な社会に生きる中で、自分自身にも悪役たちが持っている不満や怒りを共有できる素地があることを、我々はもはや見ないふりをすることはできなくなりつつあります。

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【2】「悪」が必要な理由とその変遷

そんな中、2010年代に、これまでの物語とは一線を画するアニメとして登場したのがPSYCHO-PASS(サイコパス)でした。その魅力は、フィクションに不可欠な「悪」の描き方が、現時点で最も現代的であるという点です。2019年現在で、おそらくPSYCHO-PASSより先に行ってる「善悪論」に関するフィクションをあまり知りません。

そもそもフィクションにおける「悪」の存在、あるいは効用とは何なのか、そこから考えてみます。最初のフィクションから始めてみましょう。人類最初のフィクションは、もちろん神話と宗教です。神話と宗教の役割は、人類が生きる上で避けて通れない究極の問題に対して「仮説」を提示することでした。つまり「死」の問題です。我々全員がいつか死ぬにも関わらず、生きている人間は誰一人死んだことがないが故に、「死」については誰も語れないという特性を持っているのが「死」というイベント。その恐怖と不安への対症療法として神話(誕生前)と宗教(終末後)という、2つのフィクションが作られました。これがおそらくはフィクションの起源の一つです。

一方、その「死」に関して、それをもたらすものの存在が明示的に描かれなくてはなりません。それが「悪」です。我々を不可逆な破壊へと導く存在が、様々な形で象徴化されたものが「悪」であり、「悪役」なんですね。

つまり、「悪」とは、多くの場合、各フィクションが生まれる時代に特有の「人間を害する存在」が化身した存在となります。であるから、フィクションにおける悪とは、常にそのフィクションが生まれた社会、特に経済的社会的リソースとインフラを始めとする生存環境が下地になって、その時代時代の悪役を決めていくことになります。というより、悪役も含めたすべてのフィクションの要素は、社会的な側面から決まっていくものなんですね。

このことに関して、少し脱線してみます。例えば「探偵小説」が流行るためには、「鍵のかかった部屋」が必要だったと言われています。名探偵が「開けるための場所」がなければ、そもそも秘密が生まれないのです。鍵のかかった部屋が生まれた時、初めて他者の持つ「秘密」に興味が湧くようになります。隠されない秘密など、存在しないと同じなのは、ポーが「盗まれた手紙」の中で書いた通りです。一番見えない手紙の隠し場所は、テーブルの上だったというオチを描いたのは、さすが天才ポーです。隠したいなら、隠さないのが一番なんですね。こうして、大部屋で雑魚寝をしていた時代にはなかった、「鍵のかかった部屋の中身を覗きたい」という欲望が、「探偵小説」というジャンルを準備する素地となりました。つまり経済的なリソースが増大し、個人が「鍵のかかった個室」を持てる社会的環境が整った時、必然的に「探偵小説」が勃興したんです

というような感じで、社会のリソースの蓄積とインフラの整備状態が、物語の枠組みを決めます。悪役もまた、同じく社会的な要素から決定されます。

話を再び原始へと戻して考えてみましょう。

社会自体が未成熟の場合には、だいたい「食料」に代表される生活の最低限のリソースを奪うものが「敵」として規定されます。そしてそもそも経済的リソース自体が極めて少ないために、そのリソースを奪う側も必死です。奪う側も、失敗すれば待っているのは死だった時代です。奪う側も守る側も余裕のない時代においては、「悪」は悪らしく、自分とは関係ない、殺さねばならない存在として表象されることになります。相手側の成功は自己の死に直結するのですから、善悪の戦いはシンプルかつ苛烈になります。あらゆる戦争の中で宗教戦争、宗教的対立が一番根深く暴力的なのは、そもそもかつて描き出した「悪」が、自分たちを完全に滅するような敵であったという名残とも言えますね。

時代が進むと、食料リソースは増えていきます。そうなると物語の枠組みが変動し、その変動に呼応するように、「敵」の性質も変わってきます。奪うだけのものと思っていた敵は、時には交渉可能な相手だと判明することもあるでしょう。場合によっては仲間になりうる可能性だってあります。絶対だと思っていた宗教は、実際にはそうではなく、「神は死んだ」とまで言い出すやつが出てくる始末です。ということで「敵」の多様化が始まる。あらゆる「敵」のパターンが試される中で、PSYCHO-PASSが行き着いたのが「シビュラシステム」と「槙島聖護」という関係でした。これが実に興味深いんです。

基本的にはシビュラシステムは、20世紀が発明した最も偉大な「悪」である「ビッグブラザー」と「パノプティコン」を足したような存在だと言えます。一望監視の絶対的支配者。ビッグブラザーやパノプティコンには、これまでの敵にはなかった面白い点があります。それは両者ともに、怪物やおばけのような超常的な存在ではなく、あるいは固有名のある個人でもない、両者ともに「システム」として作り上げられている点です。というか、パノプティコンはそもそも本当に囚人の監視システムとしてジェレミー・ベンサムによって発想されたものだから、システムそのものですね。

そう、19性から20世紀にかけて、いよいよ純然たる「悪」はいなくなりはじめました。まずは我々を動かす「システム」そのものが「悪」になりうるという認識の更新が行われたのが19世紀から20世紀。社会的リソースが増大し、システム全体が肥大化し始めた時、それを生み出した我々人類そのものの幸福を、そのシステムが必ずしも保証しないという意識がしっかりと芽生えたからこそ現れてきた、新たな「悪の観点」であると言えます。

21世紀に入ると、さらなる「悪の改定」が行われました。その一つが「リトルピープル」を生み出した村上春樹の物語『1Q84』です。ビッグブラザーのいなくなった21世紀において、我々を支配するのは、外側にあるシステムではなく、我々の内側にいる「リトルピープル」と呼ばれる存在なんですね。その発見は、まだ「炎上」という言葉もほとんど見られなかった2009年において、すでに今の、個人が個人をSNS上で裁き合う魔女狩り社会を見越していたような先見性を持っていと言えます(そういえばPSYCHO-PASS2のラストでは、この「魔女狩り社会」への言及がありましたね)

またジャンル的に見てみれば、再び探偵小説が興味深い展開を見せるのも21世紀です。21世紀の探偵小説においては、もはや「探偵」と「犯人」は、コインの表裏一体のように描かれる場合が多いのです。例えば最近では江戸川乱歩賞を受賞した佐藤究の『QJKJQ』は、主人公とその家族が全員猟奇殺人鬼という設定で始まります。「犯人」で主人公が「探偵」でもあるという、極めて奇妙な設定まで突き進んでいます

こうした探偵小説における「探偵」と「犯人」の同値性の問題は、実はすでに探偵小説を生み出したエドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルの時代から萌芽は胚胎していた問題なんですが、20世紀になるとアンチミステリーや反推理小説という形で、例えば「虚無への供物」に明確に見られるように、「探偵」と「犯人」は極めて似た存在として描かれるようになりました。

ただ、これらが単なるメタ遊びの域、あるいは好事家の夢想の領域にあったとするならば、21世紀はこの「善悪の融解」のような状況が、一般人まで降りてきた時代だと考えられます。その好例はおそらく「仮面ライダージオウ」で、去年放映されたこのシリーズにおいて、主人公のジオウは未来において「人類を滅ぼす魔王」になることが予定されています。「善」と「悪」は、常に重ね書きの存在であることが、子ども向けのシリーズでさえ簡潔に描かれる状態になったのが21世紀なんです。21世紀は「悪役」を描くのが極めて難しいというのは、単純な悪などもはやどこにいっても存在しないことを、我々一般人でさえ痛感してしまっているからなんです

そういう時代背景において、PSYCHO-PASSがさらに一歩踏み込んだ提示をした思われるのが、シビュラシステムと槙島聖護の関係性です。ようやく本論ですよ。

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【3】シビュラシステムと槙島聖護

シビュラシステムは、先程新しい「ビッグブラザー」であると書いたのですが、それがオリジナルのビッグブラザーと極めて違う点は、シビュラは「悪人の脳」を統合した存在であるという点です。PSYCHO-PASSの世界においては、悪を極めた人間の、一般常識や倫理のタガが外れてしまった思考や感情を利用することで、逆説的に「一般的な人間の魂の汚れ」を判別できるようになるというのが、シビュラシステムという存在の面白いところです。物語の最初ではあたかもビッグブラザーのような「外側の善悪判断システム」と思わせておいて、蓋を開けるとそのシステムは、我々の中でも最も極悪な発想を持った人間の脳をつなぎ合わせた、我々の脳のグロテスクな統合体であるいうことが判明するという寸法です。最も極悪な脳みそこそ、完全なる「善」の基準なんて、このシステムを考えたPSYCHO-PASSのスタッフは本当に悪辣な人たちです(最上級の褒め言葉です)。

この強烈な皮肉を一言でまとめるなら、PSYCHO-PASSという物語が生まれうる21世紀においては、「完全な善」は、「完全な悪」以外では決して成し得ないという逆説ですね。もはや「善悪の彼岸」は溶けているというよりも、完全に逆転している。この笑うしかない悪辣なシステムの存在が、まずはPSYCHO-PASSという物語を極めてユニークにしています。もはや主人公はシビュラシステムと言いたいくらいなんです。そして問題は、シビュラシステムはこの物語においては決して「悪役」ではなく、主人公常森朱が憎悪しながらも認めているように、ある種の「必要悪」として描かれるという点です。必要悪ということは、必要ということです。

そこでこの物語が物語として機能するために「悪役」が必要になるのですが、それが物語の中盤に姿を表す槙島聖護という人物です。穏やかで美しく、まるで罪なき無垢の存在の様に髪や服が「白」で描かれる人物。善悪の彼岸が完全に逆転したPSYCHO-PASSの世界は、今の我々の社会の鏡像なのだとすれば、槙島聖護はそれをアウフヘーベンした存在として登場します。アウフヘーベン、止揚、難しい単語を使ってごめんなさい。簡単に言うと、善悪の両方を足して、さらに「外」に行ってしまった存在として描かれているんです。その特質が「免罪体質」と呼ばれる、あの独特の設定です。

シビュラシステムはあらゆる人間の魂の汚れを「犯罪係数」として測定できるので、PSYCHO-PASSの世界においては、犯罪者は犯罪を犯す前に「潜在犯」として検挙される世界が実現しています。完全なユートピアであり、その意味で完全なディストピアなのですが、その測定で数値が出ない存在が極めて低い確率で発生していて、その中で最も強力な「免罪体質」を持つものが槙島聖護という存在なのです。極限の悪人たちの脳みそを総合しても、槙島聖護という存在の「魂の汚れ」を測定することも裁くこともできない、という設定がPSYCHO-PASSに強力な批評性を与えています。

つまりこの物語においては、「悪」は我々の社会システムの「外」に現れているんです。槙島聖護は、この世界の「外部」から審判を下す超越者のような存在で、それがこの物語の「悪」なんです。これは実に興味深い設定です。だって、そのようなメタ的な審判者の役割は、これまで「神」と名指された絶対善だけが行うことでしたが、この物語ではそれを「悪」がやるのですから。

最初に述べた通り、「悪」は基本的に我々社会の内部に存在して我々に害を為すものの総合的な象徴です。そして21世紀に及んで、「敵」は社会の内部ではなく、むしろもっと身近で深いところ、すなわち我々の内部にいるのかもしれないという疑念が、善と悪の彼岸の融解を生み出しました。ビッグブラザーとして外に投影されていたはずの「悪」ですが、21世紀の「悪」であるリトルピープルは、我々の内側にいた、それが21世紀の序盤までの「悪」の発展でした。

でも「槙島聖護」は、我々の内側にはいない。というか、物語はそのように提示しています。あらゆる悪を成し、あらゆる人間の魂の可能性を隅々まで検証しうるシビュラシステムが裁けない存在とは、つまり「我々の内側には生まれ得ない存在」であると言わざるを得ません。だからこそ「罪を免責された存在」と彼らは呼ばれるんです。つまり、PSYCHO-PASSにおいては「悪」はもはや「悪」とさえ呼べないものとして描き出されている、これが面白いんですね。

それが示唆するのは、我々の世界の自明性の崩壊という事態でしょう。我々に害をなすものを我々人類は「悪」と呼んできたのですが、もはや誰が誰を傷つけ、損ない、害を与えているのかさえわからない、そんな笑うしかない状況に我々は生きているんです。まだ、「自分の中に敵がいた」の方が、今から見れば救いようがありましたね。

そしてもう一つ面白い点は、そのような得体のしれない「悪」のあり方にこそ、現代の我々は魅力を感じるという点です。あるいは、共感さえ覚えるんです。PSYCHO-PASSの第一期、「僕の代わりを見つけられるのかい?」とつぶやきながら、狡噛慎也に頭を撃ち抜かれることを選んだ槙島聖護に対して、我々はやはり寂寥を覚えるしかないのです。

現代に生きる我々は、あまりに増えすぎたリソースをうまく再配分さえできず、どうやら種全体として悪い方向、滅びの方向へと向かっています。我々の社会を語りだす「フィクション」が機能不全に陥っているのは、我々の社会そのものが機能不全を引き起こしているからなんです。そしてそのような社会においては「悪」はどこにも見出し得ない。そう、「外」に置くしかないんですね。

善も悪ももはやそれ自体が「賞味期限切れ」の観念に見えてくるような状況において、善悪そのものに関係ない倒錯した存在だけが、かろうじて「悪」を名乗ることができるところまで、今のフィクションがついに到達しました。それがPSYCHO-PASSなんですね。(ちなみに、無垢の子どもを殺すことを意識的に引き受けた主人公を描いた「進撃の巨人」は、いわばこの逆のパターンかもしれませんね)

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【4】PSYCHO-PASSの向こうはあるのか?

だからこそ、PSYCHO-PASSの第一期が終わって第二期が始まると知った時、「これ以上の悪役を作るのは大変だぞ」と思ったものです。結論から言うと、第二期の「悪」である鹿矛囲桐斗は、槙島聖護のような新たな「悪」の価値を提示するような立ち位置にはなりえませんでした。物語の序盤で登場したときこそ、シビュラシステムに「うつらない」という特異な体質は、あたかもホラー映画の幽霊のような不気味な様相を呈していたのですが、鹿矛囲桐斗のその特質は、単純に脳の部分的な移植によって人間の意識(?)が複数体内に入ることで、シビュラシステムが鹿矛囲桐斗を「個人」として認識できないという、いわばプログラミングミスによって出てきただけの存在であることが露呈します。

槙島聖護は我々の社会が許容できる倫理の「外」側に存在する存在として極めて強烈な批評性を見せつけましたが、鹿矛囲桐斗は単純にシステムエラーで生まれた存在に過ぎません。そのため、ドラマとしては最初はサスペンスで盛り上がっていたが、徐々に終盤に行くにつれてシステム論の禅問答のような様相を呈する羽目になりました。(もちろんそれでも面白かったのだけれど)

そして今第三期の放映が先日ようやく終わったので、今僕は年末の「お楽しみ」に全話を取ってあるんです。第一期のあの輝きを超えるのは至難の業だと思うけど、21世紀の1/5が終わった今、魅力的な悪役の系譜を槙島聖護から引き継いで作り出してほしいと願いつつ、とりあえず今日はこのへんで。7200文字の文章を最後まで読んでくださった皆様に感謝しつつ。

【追記】(2019年12月30日)

第三期を見終えた後の感想を別記事で書いてみました。こちらも良ければ。


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