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便宜上付与された壊れたスイッチとしての「私」(あるいは「作家性」と「物語性」について)

1.幽霊として

古い写真仲間が時々僕のことを「たっくさん」と呼んでくれます。とても古い名残。写真をオンラインで投稿し始めた頃、今とは違って本名は使っておらず、タック・バルキントンという名前でやっていました。ちょっと恥ずかしい過去なんですが、10年近く前に、ふとした思いつきで数秒で決めたその偽名で今でも呼ばれることがあるのは、とても不思議な気持ちです。

それはそれとして、その名前の由来について、まずは話させてください。タックはもちろん僕の本名に近いんですが、問題はバルキントンの方です。バルキントンとは、19世紀中頃のアメリカの作家ハーマン・メルヴィルの代表作である『白鯨』という小説に出てくる登場人物の名前からいただきました。なぜその名前を選んだかというと、この人物、極めて興味深い来歴を持っているんです。

作者のメルヴィルは、元々このバルキントンという人物を主人公、あるいは重要人物に据えるつもりで物語を描き始めたみたいなんですが、登場させるのを忘れているうちに他の人物を主人公として台頭させてしまい、扱いに困った作者は、出てくる前に第23章で殺してしまいます。なんとも滑稽で悲劇的なキャラクターとして、割とアメリカ文学史では面白く扱われている存在なんですが、つまりそういうことです。当時写真を始めた頃、僕もせいぜい、表舞台に出ることなんてなくて、ウェブの海の中で声なき声の墓標のように消えていくだけだろうなと思ってたんです。それがどういうわけかこんなことになっているわけで、まさに人間万事塞翁が馬だなあとは思います。

それはそれとして、そういう名前を選んだのには、思いつきとは言えそれなりの理由があったんですね。僕はバルキントンという名前を自分に与えた時、その滑稽な虚構性と、何より、「出てくる前に殺される」という、幽霊的な性質も同時に引き受けたいと思ったんです。もちろん、その時はそこまで明確に言語化していなかったのだけど、僕は自分自身の個性が写真に反映すること、自分がそこに映り込むことが多分嫌だった。そしてその延長線上には、「作家性」に対する忌避感と、「物語性」に対する欲求があったのだと思っています。

2.「作家性」と「物語性」

「作家性」と「物語性」というのは、混同されがちな概念の一つだと思っています。こうやって二つ並べると間違いようがないようにも見えますが、例えば極めて強い個性を持った作家がいたとして、その人が描く物語には、その作家の個性が常に色濃く反映しているような作家を思い起こしてみてください。そうだな、三島由紀夫なんてどうでしょう。彼の作品は、その強烈なナルシシズムと、表裏一体の自己破壊欲求との相克として表出されていると思うのですが、それは物語の持つ特性というよりは、三島由紀夫という稀有な人格・個性の特性と考えた方が良さそうです。彼の物語は、彼の作家としての人格とは切り離せない、不可分の関係を切り結んでいると言えます。つまり強烈な個性を持った作家というのは、物語を規定する個性にもなりがちなので、「物語の性質」を語ろうとすると、いつの間にかそれは「作家論」にスライドしていくような、そういう部分があるんです。なので「作家性」と「物語性」というのは、そもそもが一見不可分のコインの裏表のようなものとして認識されやすい。

なんですが、別の作家の例を出しますね。やはり誰もが知っている作家、村上春樹を出してみましょう。彼の作品にも強烈な「作家性」が宿っているような気がします。「やれやれ」と呟く主人公の周りには、なぜかいつも魅力的な女性がやってきて、特段の努力をしているようにも見えないのに、彼女たちはスルスルと服を脱いで、簡単に主人公とセックスをします。主人公は警句的な隠喩(「鯨のペニスのような悲しみ」、とか、「象は平原に還り、僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう」とか)を適宜繰り出しながら、傷ついた自己と他者の物語をなんとか回復しようと試みますが、大抵の場合、その試みは失敗します。自分も、そして彼にとって大事な人々も、傷つき、血を流し、損なわれます。それでも主人公は、どの作品においても、物語を経由して「自己療養の試み」を何度も果たそうと繰り返す。こうした物語の方向性は、村上春樹という作家の「個性」なんでしょうか。実は、三島由紀夫とは少し違う印象を受けます。

例えば村上春樹という作家を思い浮かべた時、彼の個人的な生活やオピニオンなどを即座に思い浮かべることができるかというと、あまり出てきません。それは村上春樹がSNSなどをやっていないということもあるんですが、おそらくは作家として有名になり始めた頃から、彼は自分の生活にまつわる部分や、ストレートな思想的行動を意識的に避けるように行動してきたんだろうと推測されます。メディアにも出てきませんしね。

一方、もし今の時代に三島由紀夫が生きていたら、おそらくは毎日彼のTwitterは炎上に次ぐ炎上でしょう。生活の全てが一種の表現と化して、その煉獄の炎のような生活様式の全てが、再び小説の中へと錬金術のように投下されるでしょう。三島由紀夫の表現は、いわば自己愛と自己破壊のマッチポンプみたいなもので、彼という個性を抜きにしては成立し得ない「表現」です。

でも村上春樹は違う。おそらくは実際に会って話したら、気のいいおっちゃんじゃないかと想像しているんですが、村上春樹の作品、つまり「物語」は、注意深く彼自身の個性、つまり「作家的性質」とは切り離して成立させているように思います。

もちろん、村上春樹自身は、自分の作品をある程度「自己の物語」として語っているので、その意味ではやはり「作家」と「物語」は切り離せないものなのかもしれません。例えば最新作のエッセイ『猫を棄てる』を例にとると、これは明らかに自己の歴史に基づくエッセーなので、村上春樹という「作家」の人生を抜きにした作品とは言えないものです。それでも、作家像がリアルに立ち上がる作家とそうでない作家がいるとすれば、村上春樹はやはり後者の代表格だろうと思っています。それは意識的に切り離されている所作から、そんなふうに思うんです。

3.便宜上付与された壊れたスイッチとしての「私」

作家の生き様や個人史を「作家性」、作家が書いた個々の物語群に立ち現れる性質を「物語性」としてみましょう。この時、ある表現者の表現のありようのパターンとして、

1.「作家性」が強く、「物語性」も強い
2.「作家性」は強いが、「物語性」は弱い
3.「作家性」は弱いが、「物語性」は強い
4.「作家性」も「物語性」も弱い

の四パターンを想定したとします。三島由紀夫は1のパターンですね。2は例えば、芸能人が勢いで小説を書いたような、そういう感じの作品を想定してください。確たる物語世界があるわけではないけど、作家の個性で成立しているような状態。3が村上春樹のような作家です。4はそもそも「それ意味ないじゃん」って思うかもしれませんが、時流にうまく乗って、ベストセラーになったはいいけど、一瞬で消えてしまったような作家を想定しています。

こういう風に分けてみた時、僕が向かいたいのは、そもそもの最初から3だったというのが、タック・バルキントンを名乗っていた頃から、いや、それ以前からのずっと前からの欲求だったんじゃないかと、最近気がつきました。僕は多分、本当は消えてしまいたいんです。いや、ちがいますよ、誤解しないでくださいね、写真はたくさんの人に見てもらったら嬉しいですし、これからも撮り続けるし発表し続けます。でも、その写真から、僕自身は剥ぎ取ってしまいたい。そんな欲求がずっとあります。幽霊のように、あるいはそもそも最初から存在もしていなかった悲劇のバルキントンのように、僕の名前は単なる記号として便宜上付与されているだけで、その表現になんの影響も与えないような、押しても反応が返ってこない壊れたスイッチのような、そんな存在になりたい、多分僕はずっとそんなことを考えてきました。今となっては、ちょっと無理かなと諦め始めているんですが。

4. Message in a bottle

おそらくこういう気づきを得たのは、少し前に写真家の濱田英明さんと、ふとしたきっかけで深夜にやり取りしたツイートが元になっています。

興味あったらツイートの分岐を見てみてください。Twitter使ってて良かったなあと思った珍しい事例の一つです。

濱田さんもまた、時々、「すぐに忘れて欲しい」というような趣旨のことを書かれます。

それは文字通りの意味での「忘れる」ではないんだと感じています。作品が立ち上がった時、その作品が、みてくれた人と切り結ぶ物語的関係性を阻害するような要素は、極力排除したいんじゃないか。作家本人であったとしても、写真をみた人と写真との関係の間には入れないし、入るべきではない、そんな風に濱田さんが思っておられるかどうかはわからないんだけど、少なくとも濱田さんが書かれているこのnote

の中のこの一節を読むと、そんなに遠くないんじゃないかと思っています。

写真が向いていると思えるのは、勝ち負けではなく、異なるものの見方を提示することに価値を見出せるからかもしれません。優劣を決めるのではなく、お互いの違いや多様であること、それを認めあうことこそが写真の真価なんだと思います。(「写真の真価」より引用:https://note.com/hideakihamada/n/n60fcadb49685)

作家の存在が大きければ大きいほど、写真はおそらくその「作家性」によって規定されてしまいます。作家の声、作家の表情、作家の身振りが、それを見ている人の意識に影響を与えざるを得ないからです。三島由紀夫が今生きてて、彼の作品の感想を書いて、それがちょっとでも三島由紀夫の創作の意図とずれてたら、すっごく怒りそうじゃないですか。でも濱田さんは、あるいは村上春樹もだろうけど、余程ひどい読み方でもしない限り、いや、ひどい読み方をしてさえ、それはそれとして全てをtout est bienと受け入れるんじゃないか、そんな気がしてます。

そうやって作家が幽霊のように後ろに引いたとき、写真も含めた「物語」は、それが本来持っている力で立ち上がると思うんです。そしてその物語は多様に受け入れられるにつれて、さらに作者は希薄な記号として痕跡だけを残して消えていき、一方、物語自体は多層化され、多義化され、世界は豊かな混乱を獲得していく。その世界にあっては、傷つき血を流す魂が、そっと片隅で息をつけるような、そんな空間が生まれるのではないか。村上春樹の物語の空間に、若い頃の僕が、かつて心の安らぎを見出したように。そんな風に濱田さんの文章を読んでいるときに僕は考えていました。写真にもそんなことができたら、それはなんて素敵なんだろうと。

この数日、ずっとぐるぐると頭を回っていたことを、整理がてら書いてみました。誰が読んでくれるかわからないけど、海に流すように、深夜のウェブ電子空間にそっと置いておきます。それが幽霊の出方として相応しくないですか?




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