存在することの与件:哲学『不安の克服』その1

 言葉を手にしたとき、我々は存在することすら許されない。
 これは矛盾、ジレンマの片面であり、そしてある種のダブル・バインドの片面である。言葉はこのように逆らい難い桎梏を我々に課し、意地の悪い苦しめ方を倦むことなく続ける。それは自重というものをまるで知らない悪しき魂がごときである。千本の針の山はあなたがこの地に誕生する前から用意されていた。その針をこの地に植えたのは言葉であり、世間であり、社会性という不文律である。
『不安の克服』という哲学は、“構造現象学”という思想の下書きである。そのなかで言葉に関する事柄が占める割合は大きい。そして改めて言うと、不安は言葉によってもたらされ、我々はその不安を克服するために言葉に対して勝利していなければいけない。それは世間に対して勝利するということでもある。
 言葉を手にしたとき、我々は存在することすら許されない。この言い回しを目にして、言葉のようなロゴス質のものが実存を損なうという発想を持つ人も多くいるだろう。ロゴスが持つ限定された意味では、実存が持つ無限の可能性を損なうということである。ここには簡単な不等式が成り立ち、言葉は実存より情報が少ないということになる。しかし実際は逆である。すなわち、ただ存在するというだけのことを、言葉は表現できないのである。
 言葉はすべて相対性の中にある。いわゆる記号論などでは当たり前の立場だが、つまり言葉は差異によって意味づけられるのであって、「それ以外」という他のものとの区別なしに言葉は意味を持ちえない。
 だからこそ、「私が存在している」というという文には、それが直接意味する以上のことを多く示唆している。「私」という語が宣言されると同時に「私以外」の多くの存在が示唆されてしまい、「存在している」という述語の宣言によって「存在していない」ものや、「存在しているかどうか不明」なものなど、様々な在り方が別の場所で示唆されてしまう。差をつけなければ意味という効力は発揮されない。
 だから、「私が存在している」、ただそれだけの事実というのを言葉は扱えない。そして、ロゴスに唆されて実存が脅かされるという旨の主張は、このじれったさを扱えていない。そしてこのじれったさはいわば、不本意な形で社会へ参画させられることへの苛立ちを含んでいる。
 言葉の使われ方は社会の規範を内在するものである。この主張の論拠はもはや現代思想で何度も繰り返し説明されているのでここではあえて述べることはしない。我々はそして言葉というものを他者の模倣によって習得している以上、言葉を手に取ると同時に我々は、他者が与えてくる規範を甘んじて受け入れることを強いられている。規範を選択する余裕や遊びというものはそこにはない。有無を言わさない、差異体系への隷属と世間への参画が、「私の存在」よりも先に前提として設定されている。つまり、世間とその規範への服従が、「私が存在する」ためにまず求められるということである。繰り返すが、そこに選択の余地はない。
 だが我々はいま、言葉に熟達することで、本来与えられなかった余地をみずから作り出すことができる。人の知っていない、世間にとって既知でない、それゆえ脅威となることばの使い方によって、言葉に勝利することができる。

次回は、言葉によって我々は存在することができる、ということについて述べようと思う。

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