『魚の名前は~』の振り返りなど 2023.12.18 【なぐり書きの日記】

『魚の名前は0120』が商業誌『太宰治賞2023』に掲載されてもう半年となる。この作品をしっかり振り返る時期がそろそろ来たような気もするが、医師国家試験も近いので、ある程度簡便な形で今回は済ませておきたい。そのついでに、俺が長く構想している「変なラノベ」についても述べておきたい。
 哲学上の問題として「存在」なる概念を扱うにおいて、人間にとっての「存在」と、伝統的な形而上学が目指していた「存在」の徹底的な区別はこの変なラノベのテーマというより俺自身の哲学的営みとして重要なものであるが、それらについての進捗──例えば、人のこころが「存在」としての充足感を持つには、自分が社会のなかで善であるという実感が必要なのだろうということなどについての考察──もいったん記しておきたいからである。なんだか雑多な感が目立つが、「なぐり書き」とのことなのでそこは目をつむろうと思う。

1.気持ち悪さについて
 以前の記事でも述べた通り、小説作品を完成させる否かという点に関して、俺は身体性を実感できるかどうかを基準にしている。その結果、様々な構想が立ち消えて完成に至っていないが、それではこのような身体性を得て作品構想に与えるにはどうすればいいのか考えたところ、それはやはり「気持ち悪さ」ではないかと思う。

『魚~』をお読みいただいた方なら嫌というほど痛感されたことかと思うが、『魚~』で扱われているモチーフの数々は気持ち悪い。書いた本人が言うのだから相当なものだと思う。だから結果として、知り合いのお読みいただいた皆様からはほとんど口をそろえて「気持ち悪い」との感想をいただいている。旧エヴァの熱烈なファンである俺としてはこれも光栄の一つとして浴しているが、そういえば小説家を目指してからというもの、俺が書き上げた作品というのはすべて気持ち悪いのである。
 例外はない。実はちょうど2年ほど前にも、ボーイズラブ小説の賞に作品を投稿したが、それですら知人からは気持ち悪いとの評をいただいた。ちなみに編集部からの評価としては「これはBLじゃないです」とのことで、まあ今思うとむべなるかな、である。せっかくだし公開したいところではあるのだが、一応こうして実名も身分も明かしている以上、あんまりそういうエッッッッッチな作品を公表するのは二の足を踏んでしまうところですね。まあ描写とかはきれいに書いたつもりなんだけど。
 さて、話を総合すると「気持ち悪さ」をはらんだモチーフこそ俺にとって執筆の原動力となる、という結論が得られる。じっさいついこの前も、かれこれ15年間ほど取り掛かっている変なラノベに関する構想を最近思いついて、それで珍しく本文を書いてみよう……としているうちに400字あまりもさっと書けてしまえたのだが、これもまさにその思いついた構想が気持ち悪いモチーフに基づいたいたというところに理由がある。
 なんでそんなに気持ち悪いものが好きなのか? 思うに、俺にとって世界というのはデフォルトで気持ち悪いものなのだ。普段それら吐き気を催すような腐乱はさまざまな手段で隠蔽されている。ところが何かの拍子に、ニーチェよろしく「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きていることができないかもしれないような種類の誤謬である」とばかりに、隠蔽されていたものが開示されてしまうと、それら混沌と渦巻いた倒錯は俺たちをおぞましい渦へと誘い、眩暈とともに俺たちは真理に触れることとなるのだ。
 ここでの「真理」とは、決して何かしらの命題の形を取ったものではない。その真理体験とでもいうべき触感は、言うならばそのクオリア性──可算的でなさ──をもってこそ真理との接触となる。「ものすごく大きい」ものが実際に目の前にあって我々を圧倒するその実体験は、その大きさを数値で間接的に伝えられたのとでは全く質的に異なるということだ。そしてそのような、日常規範を超えた真理体験は、俺にとっては気持ち悪さという体験によって実現されることになる。もう少しわかりやすい言い方をすれば、「悪夢性」ということだろう。
 この悪夢性という点に関して、俺が長らく範としてきた音楽表現がある。『腐っていくテレパシーズ』という名義で発表されたその音楽は、これを名乗って活動していた角谷美知夫の死とともに、追悼CDの形で世に放たれた。著作権が今どうなっているのかは不明だが、よければYoutubeで検索して聴いてみてほしい。アルバムの一曲目である『テレパシーなんかウンザリだ』からして、本当に驚嘆を禁じ得ない。

2.ダークな社会について
 そういえばと気づいたのだが、『魚~』という作品が全編を通して、共産主義社会をモチーフとしていたことは誰からも指摘されなかった。これは素直に驚きである。

 共産主義をモチーフとするにあたっておそらく発想の起点となったのがこのツイートである。『魚~』では、共産主義と学校に共通する(という印象を当時俺が持った)ある種の性善説的な欺瞞、表層的な取り繕いみたいなものをモチーフとしている。俺は教育学史に明るいわけでもなければ共産主義に詳しいわけでもないので何かしら深い考察があったわけでもなく風刺としてこのトピックを扱ったわけでもない。だから結果として何か素朴な共産主義批判をしてしまったような感は否めないし、ややもすればありきたりな誤解をもよおしていたのかもしれないが、まあこれもやはり結果的に、俺の小説で共産主義へのイメージが下敷きとされていることを誰も読み取らなかったのだから名目上は共産主義批判をしたことにはなっていない……と思う、多分。
 しかし奇遇なことに、この作品を書き始めるほんの数週間前にロシアがウクライナに本格的な戦争を仕掛けてもいた。これを時事への追随とみるか作家的な才覚の発揮と自負していいのかについてはちょっと保留しておくが、こういう一致はわりと大事にした方がいいものではないかと思う。
 あるひとつの社会全体が犯してしまったある過ちについて深く考えることは言うまでもなく、小説を書くにあたって大変な意義を持つものだ。その意味で、俺がつとめてよく知ろう、としている対象の一つがオウム真理教だ。個人的なスローガンとしている「昭和の克服、平成の解決」にあたっては、オウム真理教のような集団がなぜ発生してしまったのか、なぜあのような犯罪行為に信者が加担してしまったのかを深く理解することが不可欠である。そしてそれらがなされていないからこそ、令和の現代社会は昭和と平成の負の遺産を引きずっていると強く確信している。
 オウム真理教関連の情報に触れたときの何とも言えないおぞましさは、上記した「気持ち悪さ」の一例である。似たようなものとして位置づけられるのが、北朝鮮だとか太平洋戦争の資料などだろう。この種のグロテスクさから人の業というものをくみ取らなければ、発動させることのできない想像力というものがある。そこにおいてはやはりクオリアの実感が重要なのだから、符牒的な言説や理解はことごとく排するべきだろう。

 とりあえず『魚~』についてはこの2点で今日は話を終えておく。続いて、「変なラノベ」について。
 繰り返すが、俺はこの変なラノベに15年も取り掛かっている。小説家を目指したのも結局はこの作品が開始地点である。始まりとしては、90年代の特に後半のアニメ、自分が幼いころに触れてきたあの空気感を再現したいというくらいのものでしかなかった──しかしそれですらそもそも難しい課題だったわけである。これに加えて、書くべきだと俺が確信を持ったテーマをドカドカと追加していた結果、それの実執筆をしていくことは極めて困難となっていった。
 書くことだけが困難なのではない。おそらく理想的なかたちで書き上げられたとして、それはおそらく売れる商品とはならないだろう。もともと、15年ほど前の商業ライトノベルに対して思うところあって考え始めた作品であるため、アンチ商業とは言わないまでも、売れそうな面白さを正面切って打ち消すような気前の悪さ・地味さ・ダウナーさがこの作品の根本的な空気感なのである。発表する場所としてはweb が妥当だろうし、とりあえず『小説家になろう』で断片的に公開してもいる。
 とはいえ、最大の困難は実は多く解決している。それはテーマにおける哲学的な問いである。これがジレンマとして可視化されてすらおらず、ただただ煩悶の塊のような状態だったのが、今ではそれなりに明確になっている。それを以下に述べようと思う。

1.善を志向することについて
 一般的にラノベでは、善を志向した登場人物が世界の中で立ち位置とアイデンティティを獲得するような筋書きが多いと俺は思っている。このような流れがデフォルトとなっていることは大した意味のないものだと、中高生のころ俺は考えていた。
 だが冷静に思い返すとそれはただの逆張りである。今、自分自身の文脈にこのテーマを置き換えて述べるのなら、こころが(主観として)存在であるためには周囲の環境に対して自己効力感を持つことが必要ということになるだろう。そしてその自己効力を他の人間から承認されるには、やはり善であることが必要、ということになる。存在の必要条件は公共性なので、善であることによって「他人から見ての自分の効力」と「自分自身にとっての自分の効力」は同じでなくてはいけない。その合致は善によって保証される。
 しかし存在的であろうとする渇望は決して満たされないのである。なぜなら人のこころは存在ではないからである。その議論は2.において行うとして、自分が善であるという認識はたびたび裏切られることになる。もちろんある程度の余裕、遊びを持った自己認識を持つことが一般的でこそあれ、その裏切りはやはり余裕を超えて自分を引き裂くものだ。
『リコリス・リコイル』はこの点、最後まで踏み込まなかった。いくら善の相対性を説いたところで、やはり絶対的な善が存在を保証することには変わりないのである。だから、諦めよりは不安の方が価値がある。一方でさらに言えば、ある視点からのある人間の行動は善でもあり悪でもありうる。となると、一つの視点の中に評価が混在することになる。そこが存在論的不安において重要でもあるのだが、これも相当に周到な心理描写がなければ作品の中では達成しえないだろう。
 いずれにせよ、善と存在は形而下の結びつきをしている。形而上学でこれを扱うことは、無神論者にはできない。神を信じるのなら、神が望むよう善として振る舞うことで存在を許されるとの解釈になる。それもまた、この「変なラノベ」で必要なものだろう。なにしろ、神によって天国から追放された天使と死神が争う話なのだ。そして彼らにとって、人間のこころとからだを与えられてこの世に生きていること自体が神から与えられた罰なのである。

2.公共と言葉について
 これは現代思想の文脈から言えば比較的当たり前の話である。ただし、主人公が公共から徹底的に疎外されていて、悪とか劣等とかいった属性を周囲から徹底的に付与されている。主人公の地の文で語られる非標準的な言葉遣いは、もちろんこれと対応するものである。
 それはやはり、公共性と存在の結びいた点の上に乗った問題なのである。我々は自分が属する世間の他人とコミュニケートできるのであり、そしてそれに先行して世間で使われている言語を他人からいつの間にか与えられ、いつの間にか己がものとして習得したその言葉を話し、結果公共的なコミュニケートが可能となっている。
 つまり我々の知らないうちに公共というものが我々の中に侵入している。そして我々は我々自身を表現したり自ら思考したりするにあたって、公共の写った姿であるその言葉を使わざるを得ないわけである。だが公共の言葉はときおり我々自身を表現しえない。その齟齬にやはり存在論的不安は強く差し込まれる。
 非標準的な言葉で自らを語るということは、公共性という(主観的)存在性をかき消すということである。そこに疎外が自覚されていること、ときに痛々しいまでのふてくされた露悪とがあるということは、この変なラノベの作品世界における社会秩序──支配者層である天使による規範──に歯向かおうとする主人公の生きざまに合致する。一方で、この主人公に仕事を与え食い扶持を担保しているのは間違いなく天使である。天使の与えた仕事の中で、天使に歯向かおうとするその矛盾が、存在的であるということの難しさをそのまま反映していると言える。

 ところでこの「変なラノベ」、断片的にはできているんだが、どうしようかな。あんまり整った形にはなっていないのだが、公開していくべきだろうか……

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医学生でなおかつ、大手出版社の小説誌に掲載歴のある筆者が、おかしみと意外性のあるレトリックで語ります。面白いよ。

医学生が卒業試験や医師国家試験の勉強と並行しながら、研究のための論文読みなど様々な独学を並行して行う生活を綴ります。構想中の小説の話もたま…

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