見出し画像

【なぐり書きの日記】2023.09.16 フィクションの構想と身体化(無料部分で完結)


 身体化という概念がある。ややこしい、というより厄介な概念だ。この言葉はかなりあいまいに、直感に任せて使われる向きが強く、それゆえ論理の正当性を恣意的に作り出している──すなわち、身体化されていれば是、という格調ある符牒によって、評する者の個人的好みを正当化してしまう──風潮すらある。ポストモダンの論者において、身体化という概念やお作法は便利な懐刀であったし、自家薬籠中のものであった。しかしその薬篭の中には一体、何が入っていたというのか?
 思想史における語の使われ方を問いたいがために今、俺はこの記事を書いているわけではない。ポストモダン的な文脈は俺にとって、必ずしも踏襲すべきものではない。もちろん思想的営みは、小説を書く上ではまず第一のものとして重要なものである。人間理性、人間精神というものそれ自体が独立した機能を持っているとか、それらの機能がフィジカルな機能、身体の機能に由来するものではないとかいった古典的な人間観を、現代思想が真っ向から否定していることそのものには、決して異存はない。しかし、では俺自身の人間観は果たしてポストモダンのそれと一致するのか否か、その答え合わせを今あらためて行おうとは思わないということだ。
 ただでさえ大学の卒業試験に向けて辛い勉強をしている今こんな文章を書いている理由は、俺にとって小説を書く第一歩がまず何よりも身体化であり、ある題材を小説に落とし込めるかどうかのゴーサインの判断は身体化の可否にあるということを、そろそろ自分の中で明文化しておいた方がいいと考えたためである。この前置きの文章がやたら晦渋で一般に読むのに適していないのも、自分にとって本来的なところに立ち返りたいという目的があるためだ。このような口調の方が俺にとっては自然だし、自然であるがゆえ己が内にあるものを記述するにはもっとも適しているということだ。素朴に考えれば上の口調は苦々しくもってまわった語り方として目に映るだろうが、俺からすれば口八丁の立て板に水そのものなのである(Chu! 気難しくてごめん♪)。
 さて、振り返ってみると、いわゆるアニメ作品の中で、作品世界の設定が徹底的に身体化されているものというのは少ないように思える。俺が観た限り、パッと思いつくものは相当に少ない。しかしやはり筆頭に上がるのは『新世紀エヴァンゲリオン』である。言うまでもなく超有名作品であり、また俺自身この作品については以前の記事(下記リンク参照)で個人的な評を詳述している。そこで、旧世紀版『エヴァ』の例をひきながら身体化とは何なのかを説明してみようと思う。

『エヴァ』において身体化とはどのようなものかをよく表している言葉の一つが、”A.T. フィールド”である。というのも、この用語が指す概念は中盤のあたりまで、ほとんど身体化されていない概念であるかに扱われていたにもかかわらず、終盤に差し掛かるにあたり”A.T. フィールド”という語は突如として身体化の色味を強めていくのだ。
 A.T. フィールドの視覚的な初出は第二話である(もとの表記では第弐話)。使徒に反撃しようとした初号機は使徒の持つA.T. フィールドの防御に阻まれてしまうが、エヴァ自身が展開するA.T. フィールドによってそれは破られる。ここでA.T. フィールドがいわゆる”バリアー”として機能していることが強調されるのだが、その後しばらくはA.T. フィールドというものがことさらに、何か大きく重要なものとして機能する場面というのはない。第11話では使徒を倒すにあたりA.T. フィールドを破るための段取りが会話のなかにあるが、それでもバリアーの突破自体は視覚的には何らの演出などなくあっさり困難は突破されてしまう。第12話では一応、初号機の両手と接触した絵としてバリアーは表れるのだが、それも零号機のナイフで簡単に裂かれる。まあだから、TV版『エヴァ』の中盤まではこのように、A.T. フィールドを破れるエヴァだけが使徒を倒せる、という設定を作る以上の物語を持っていないし、意地悪く言えばエヴァというロボットのような何かを活躍させるためのSF考証、というより口実としての役目がほとんどとも考えられるだろう。
 雲行きが変わるのは第16話である。得体の知れないマーブル模様をした球体の使徒は、地面に映した陰で初号機や街を飲み込み、そして実は影と思われた方が本体であり、そこがA.T. フィールドを有すると説明される。ここでの使徒の不気味さといったら相当なものなのだが、人間の干渉できる余地のなさそうな何かが持つ謎の能力としてのA.T. フィールドの姿がここから顕在化を始めるわけだ(一応言うと、13話でレーザーを撃ち込まれた謎のシミのようなものがA.T. フィールドで防御するシーンもその種の不気味さをある程度持っている)。人間の意志が否定されるというライトモチーフは『エヴァ』において一貫するものであるが、その点に関しては先ほどの記事を参照してほしい。
 第19話では、人間には制御のできない獣と化した初号機が、”最強の使徒”の腕を引きちぎって投げつける。そしてそれはA.T. フィールドの壁にへばりついて、おびただしい血痕の張り付いたA.T. フィールドがまがまがしく浮かび上がる。このあたりで突然、A.T. フィールドというこれまで明確な説明のなかったあいまいな概念が、にわかにおぞましいものとして描かれ始める。そのおぞましさとは先述した通り、人間の意志を超越した何かへの畏怖をかきたてるものだ。この最強の使徒との闘いそのものがまた、人間の意志を否定するという文脈を強く持ったものであるということは、先のリンクにある記事をあたってほしい。
 第22話でロンギヌスの槍がA.T. フィールドを破る瞬間についてもそれは同じだ。生きていないはずの”槍”が突然生き物のように変形し、A.T. フィールドという防御を破る。ここで槍が変形した結果、槍先に広がった螺旋構造の裏側にある赤いヒダが露出するのだが、それがキノコのかさの裏側や動物の腸の内側に似た外観を呈していることはその意味で重要だろう。監督の庵野秀明は肉食を忌避するだけでなく、「バイキンだから」という理由でキノコを食べることも忌避しているということも加味すれば、あのシーンはまさしく槍を生き物に見立てているのだ。
 第2話で何やら謎めいたバリアーとして出現したA.T. フィールドは、中盤にかけていったん毒気を抜かれていった。それが、終盤に突如として恐ろしさをまとった不可解としての色味を強めていく。そしてついに、第24話にて、それまでの交友関係をほとんどすべて絶ってしまった主人公であるシンジと打ち解けた少年・渚カヲルが現れる。彼は使徒だと判明する。シンジは怒りと戸惑いを隠せないままカヲルを追い、彼が操る弐号機とナイフで戦うこととなる。つば競り合いの中、軌道のそれたナイフはカヲルのほうへと流れた。シンジが息をのんだ瞬間、ナイフを阻むA.T. フィールドが煌々と光る。それはカヲルが人外の存在であることを意味していた。
 A.T. フィールドとは心の壁である。それは完結編の劇場版において物語の流れそのものであるし、人間すらもA.T. フィールドを誰もが持つものだと語られる。それらは唐突でこそあれ、明らかに作品のテーマとして機能し、超現実的なスペクタクルは異様な現実感をもって迫ってくる。なぜそれが可能なのか? A.T. フィールドが、人間には至れない向こう側と人間とを阻む壁として、おぞましさという情感をもって徹底的に描写されたからだ。そして第24話でその情感が最高潮となったとき、カヲルの口から「リリンもわかっているんだろう。A.T. フィールドは、誰もが持っている心の壁だということを」と述べられている。つまり、人と人との心の壁は人の意志では越えられないという作品のテーマを直接表すものとして、A.T. フィールドという概念があった。中盤でその意味合いが提示されなかったことは、コメディ色の強い中盤のストーリーの明るさと完全に同期している。人と人とは打ち解けあい分かりあうことができる。その通俗的な世界観の中で、A.T. フィールドという壁は、実質的にないものとして扱われる。この、素朴で不信感のニュアンスが少ない人間観に対して、「人と人とは分かり合えない」という恐れ、裏切りの気配がストーリー展開のなかで満ちていくと同時に、A.T. フィールドがまとった意外性を伴った恐ろしさによってその明るい人間観が覆され始めるのだ。その意外性とは、「人と人が分かり合えなかった」という意外性そのものへと転化していく。かもし出す情感と物語の同期、語られる言葉が示すテーマとの重なり。それら、モチーフ同士の作り出す重層的な迷路──論理や言葉で割り切れない、物語という読者にとって新規な情報が持つ新規性ゆえの謎めいた存在感──それが成立していることがまさしく、身体化の成立を意味する。
 第24話に話を戻すと、絵コンテ集をみると、カヲルがA.T. フィールドでナイフを防いだカットには「やはり使徒である」との添え書きがある。つまり、この演出は狙いすまされたものであるということだ。身体化は、クリエイターが論理と感性、情念と構想をめぐらせて、作り上げられていくことができる。その過程がどの程度意識化されたものか、どの程度明晰な把握がされているのかはクリエイターの各々で異なるだろう。それは当人の才覚次第であるし、優劣の尺度で評価しようとするなど生易しく思えてしまうほどに複雑怪奇だ。クリエイターは現代の怪物なのである。

 蛇足であるかもしれないが、身体化の成立は必ずしも、鑑賞者にとってその身体を感じさせることを導くものではない。『エヴァ』がそうであったように、そこには直感的な把握が必要となる。つまり、身体化された構想の核心部分を、鑑賞者が直感的に「わかって」しまえるかたちを呈されていなければそれは看過されてしまうだろう。『エヴァ』はその点、直感に強く訴えかけるものであったと言えよう。
 さて、それではなぜこのような現象、構想のしくみを俺は”身体化”と呼ぶのか? 一体何が身体なのか? 端的に言うなら、情動のような生理的反応をはじめとした機構により、情緒は身体によって理解されるし、またイメージされる身体という物理モデルによってあらゆる概念と論理は理解されると思っているからだ。しかしこの話をちゃんとしようと思うとまただいぶ話が長くなるので、今回はこのあたりで中座しておく。正鵠を得た説を唱えるには認知科学の知識も必要だろう。それもあまり今の俺は十分持っているというわけではないので、この続きはまた先になるだろう。

 ここまでの話でお判りいただけると思うが、俺は構想や執筆の方法をかなりダイレクトに哲学に接続している。高校2年生くらいのときにそういう青写真のもと哲学の本を読み始めたが、こうして明文化できる程度にはなんとか思索を続けられたというわけだ。あの頃は本当に前を向いて、成長しようと自己鍛錬できていたと思う。その気力もあわや尽きかけているのが現状だが、とりあえず今は今で頑張らないといけない。
 ところで青写真というともう一つある。俺独自の哲学を作り、それをひとつの分野として提唱することである。それのとりあえずの構想があるので、まだまだ完成にはほど遠いのではあるがひとまず短くまとめてみた。

 構造現象学という一つの思想を始めることをここに宣言する。そして以下は、構造現象学とはどのように営まれるかの説明である。
 ある人はこの思想を認知科学からの剽窃、中身の入った瓶として売られている商品のラベルだけを自社のものに貼り替えた、呼び名としての用語だけが違う何かでしかないと非難するかもしれない。またある人は、これは思想とも学術とも呼べないと非難するかもしれない。
 このような苦言を想定し、それらに甘んじるべきところがあると否定できないうえでなお俺が”構造現象学”を提唱するのは、連続的な論理が人の心の在り方を捉えるのにきわめて難しいからだ。この連続性とは、決して自然科学の持つ連続性ではない。哲学の内部にある連続性である。こと人間の推論過程というものに関して、19世紀までの西洋思想においては、人間が合理的であるという前提によって推論が行われていたのがほとんどだった。だからこれらの哲学それ自体の論も、連続的な形式に徹してきた感がある。人間理性は連続しているのだから、それをよく解き明かすにも連続的な論理が適しているという人間観があるわけだ。パースの提唱したアブダクションの原理が異彩を放っているのはそのためである。しかし人間の推論過程は連続的ではない。その飛躍の仕方は、素朴な人間観が映し出す像からはだいぶかけ離れている。
 すなわち、人間の推論過程をはじめとした、様々な心の在り方を思い描き、想像してみるには、どうしても飛躍が必要となるし、そこには相当の思い切りが要請されることとなる。ここで注意したいのは、飛躍というさまが連続の対極にあり、いわば正負の両側へと延びる数直線を作っている一方で、自然科学による連続性を俺はここで無用のものとみなしていないことである。また同時に、数学の連続性についても然りである。ともすれば、数学による概念の処理は積極的に採用することもあり得る。なぜそのような矛盾したかの立場を取るのか。それはつまりこういうことだ。人間の内部にある連続性は信じないが、外部にある連続性は信じる。構造現象学における推論の全てにおいて、人間の外界というものは連続的な原理で存在していることが前提となっている。
 自然科学から与えられる連続性と、人間内部で独立した連続性の違いとは、正解するまで何度も問題を解き直すことと、一度解ききってしまえばそのまま答案を提出してしまうことの違いに大きく似ている。あなたがテストで、自分自身の力によってのみ点数を取ろうとするなら、誰かに答案を見せてそれが間違っているかどうかを訊ねることは禁じられていなければいけないはずだ。自然科学はそれと違って、実証実験などを行うことで、その答案が間違いか否かだけは教えてもらえるのである。それを延々と繰り返せば、あなたの独力で取る点数からは大きく改善された成績を最終的には得ることになるだろう。
 一方で、このように連続性を確保した論理が即、透明で中立で公正な威力を発揮するというわけではない。それらの論理を使う側のわれわれはたびたび誤る。その誤りとは、1+1=2という式を、1Lと1mLに対して適応するかのごとくである。論理には適用範囲がある。そして数学で特に顕著だが、語や概念の定義が対象とするものとは異なるものには論理を使えないし、推論そのものの妥当性があったとしても設定した公理の内容如何によってはその価値は極めて低くなってしまう。これは例えば、神を信じない者がスピノザの言うことをどう評価するかにあたって直面する困難と本質的に同質である。少なくとも信仰なしに、スピノザの言を真に受けるわけにはいかないのは確かだろう。

 構造現象学においては、あらゆる言語活動にはエクリチュールがあって、受け手である人間にとっては少なくとも、論理そのもののの意味以上の意味内容を印象として与えるものとみなしている。この点に関して、少なくとも俺がやる分において構造現象学は極めて厳格である。ポストモダンがした以上に広くその射程を想定するし、自己に対してもまた同じく、である。しかしその原理を濫用した当て推量をすべきでないとの自戒は徹底的に厳しくする。このような心がけは、人間の思考は現実全体の因果関係と違って連続的でないという前提があって初めて意味をなすし、自然科学の連続性と人間内部の連続性の間に信頼性の点で大きな隔たりがあるということをもやはり前提として必要とする。端的に言えば、我々人間は透明でも中立でも公正でもないし、その結果不透明で非中立的で非公正な表現を作り、あるいは表現を受け取るときに不透明で非中立的で非公正な理解をするということである(以下、そのような現象を”偏り”と呼ぶ)。
 これは数学において諸概念を扱うにおいても同じである。多くの場合、数直線のような、ある向きに向かって量が増えていく軸を設定するとき、右側を正負のうち正にあてることが一般的である。左に行けば小さくなるし、右に進めば大きくなる。この左右の間に恣意性があることが先に述べた不連続なのである。なぜ右のほうが大きいのかという問いには、そう定義されることが習慣であるからとしか言えないし、その断定に連続性はなく飛躍は不可避である。そしてこの、右側ほど大きいという設定の由来は、西洋の言葉が左から右へ書かれるからである。この左から右へという感性が恣意的であることについてはアラビア語圏の人々の感性がよい証明となっている。
 しかしこのような表現上の恣意性があったとしても、数学の論理そのものの恣意性へと直結するものではないと俺は考えている。右が大であることは論理の内容に何ら影響を与えないし、論理の正誤に関しては公理と定義という、人間からは外部化された参照先によって、先述のテストの例のごとく添削されるからである。ただ、右を大と設定した図表をあつらえ、その論理を実際に使うときの人間のこころの動きはやはり”偏り”がある。こころの動きに偏りがあっても、結果として偏りのない論理が作れるのは、外部を参照できるからである。しかし何度も言うが、外部を参照しない限りやはり偏りは出てくる。論理内容だけが人間にとって思考内容を決めるものではない。それはウェイソン選択課題の例を見れば明らかである。

 人のこころのはたらきを知ろうとするにあたり、自然科学が示した以上の内容を推し量るには、飛躍が必要だと俺は冒頭に述べた。飛躍は飛躍であるがゆえ、科学的な検討はされていないことが望ましい。すなわち、現状の科学では必ずしも確かめられないようなテーゼを考案・発明できることが望ましく、むしろ科学的な検討で済ませられないことにこそ哲学として営む価値があると言える。未来に発達した科学的手段で検討できるならそれはそれで喜ばしいが、この可能性についてはいったん埒外としたい。
 こういった、科学に即しながら科学から離れもする営みの結果生じた説の一つとして、「人間の精神は存在ではなく、自分が存在であるという錯覚は言語によって生じたものであり、その錯覚は人をより存在しなければならないという迷妄によって苦しめている」ということを提唱したい。構造現象学の方法を一通り述べられたら、言語と存在についての自説を詳らかにしようと思う。

ここから先は

0字
医学生でなおかつ、大手出版社の小説誌に掲載歴のある筆者が、おかしみと意外性のあるレトリックで語ります。面白いよ。

医学生が卒業試験や医師国家試験の勉強と並行しながら、研究のための論文読みなど様々な独学を並行して行う生活を綴ります。構想中の小説の話もたま…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?