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精神分析を知ってみる ① 男性の中に棲む「未完の女性」

※今回の話のテーマはあくまで医療に関することですが、精神分析というテーマを扱う以上、性的な事柄が非常に多く、人によっては大変不快を催すような記述があります!
少なくとも食事中に読むことは推奨しません! 僕は注意しましたよ!
また、執筆者は現在学生であって臨床心理学や精神医学の専門家ではないので、内容の信頼性は何ら保証されていないことにご注意ください!!

 人間は劣等感を覆い隠すためならいくらでも自分をあざむく、すなわち自分に噓をいくらでもつく、という人間理解は現代ではほとんど常識となったのではないだろうか。優等生であるために、強いリーダーであるために、頼もしい親であるために、虚勢を張り続けた結果、もともと気になっていた自分の弱点を「なかったこと」にしてしまう、というのはいい例だろう。こういう人間観をもたらしたのはフロイトであるとするのがたぶん一般的な認識だ。
 もちろんフロイトより先にこのようなことを言った人はいて、「嘘が嫌いというのも、ともすれば、われわれの証言を重からしめ、我々の言葉に絶対の尊敬を引きつけたい、というひそかな願いなのだ(ラ・ロシュフコー)」という言葉(要するに、人から信用されたいという欲目があるから嘘を嫌うようになるのだ、ということ)なんかは、300年以上も昔の人の言葉だと知るとぎょっとさせられるものである。
 あるいは、日本の古典文学なんて読んでいると、この手の人間心理というものをよく書き表しらものは案外出くわすように思う……こう書いておいてなんだが、いい例が思いつかない。「古文なんて昔の人の言ったことなんだから勉強する意味はない」という主張に対し、「無意識というものを感覚的に捉えていたという意味で日本が西洋と異なる人間観を持っていたことを体感するのに有意義である」と声高に反論できればご立派なのだが、不勉強の身ゆえそういう見事なマネはできない。
 ただ例えば、鎌倉幕府から権力を奪取しようとクーデターを起こして失敗し、隠岐へと島流しになった後鳥羽上皇が詠んだ和歌の、「人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は(意訳:世の中がつまらないせいであれこれ思い悩んじゃうから、人間が恋しいとも憎たらしいと私は思うよ、トホホ)なんて言葉の並びをみると、えぐるような人間洞察にやっぱりギョっとしてしまうんじゃないだろうか。これは今からさかのぼること800年ほど前の作品である。

後鳥羽上皇の肖像。顔がフニョンとしてるのは謀反に失敗して脱力したせいか、
それとも絵の描き手の個人的悪意のせいか?
昔の人の考えたことってよくわからない

 話が大きくそれた。自分に嘘をつく──というより自分の気持ちを自分自身が覆い隠すということがありえてしまう、という人間理解をフロイトは世に広めたわけだが、それはほとんどヒステリー研究によって行われた。症例の一つであるエリザベートについて言うなら、彼女の脚に激痛が走って歩けなくなった原因もまた、彼女が自分の気持ちを覆い隠していたから、と言えるだろう。
 催眠術をかけてフロイトがエリザベートから聞き出したところでは、この女性は姉の葬式に参加したおり、遺された姉の夫に対する強い恋愛感情を抱き、その罪悪感から恋慕の情を覆い隠すために足が痛いという症状があらわれた、ということである。フロイトの治療かいあって、最終的にエリザベートは再び歩けるようになった。
 無意識の中には本人にとって望ましくないものがしばしば隠れている、ということをフロイトが発見していなければ、ヒステリーという疾患の治療は今なお絶望的に困難だったのではないだろうか。何しろMRIだとかCTだとかいったもので脳を検査しても、ヒステリーの原因そのものは映し出されない。科学技術そのものに頼らずフロイトが発見したこの原理は、疾病利得(しっぺいりとく)と呼ばれるものだ。疾病利得とはなにか。引用すると、「たとえば、病気を理由に適応困難な現実からの逃避が許されるように、病気であるために得られる目前の利得をさす。現実的には非適応行動という結果になる」(中公文庫『精神分析学入門』第二十四講の、訳者・懸田克躬による注より)。
 すなわち現実から逃避できる口実を作り出すということだが、疾病利得のすべてがここまでダイレクトな現実逃避を作り出すとは限らないだろう。それより重要なのが、フロイト自身の語った通り、「すべての神経症患者がある意味において仮病を使っているという一般論としては(略)それは意図的な仮病ではなくて、無意識的にそうなのであるという点がいわゆる仮病とは違うのです」(小此木啓吾氏の著作・『フロイト思想のキーワード』に紹介されたフロイトの発言より孫引き)という点だ。
 つまり、知らないうちに自分をかばおうとして患者はヒステリーとなるわけだが、そこで無意識が包み隠していることを暴き出すことで疾病利得を自覚する、というのがヒステリーの治療法というわけだ。足が痛くて歩けなくなったエリザベートの例においても、催眠から覚めて姉の夫に対する恋慕とそれへの罪悪感を自覚したエリザベートは、すぐにフロイトの促すままに歩きはじめることができたようである。
 これらはあくまで病人の話であって我々の生活には関係がない、と思う人もいるかもしれない。でもそうではない、ということは、もう現代では漫画なりドラマなり小説なりで散々描かれてきたことだ。だからそういう話をあえて今からするつもりはない。じゃあなんでフロイトの話をしたかというと、フロイトの説に反するようなことを先日思いついたから、フロイトの思想をここで一旦おさらいしておきたかったのである。その思い付きとは、「男性は永遠の処女である」というものだ。
 このフレーズが唱えるところは新奇なものではあるが、しかし精神分析にある程度親しんでいる人ならば、「ああ、確かに雰囲気は精神分析っぽいね」と幾分かは思ってくれるのではないだろうか。だが精神分析やフロイトにあまり親しみを持たない方々が、ついに西井が狂ったと勘違いしては困るので、先に述べておきたい。精神分析では常軌を逸した、とんでもなく下品で倒錯的に聞こえる概念が頻出する。しかしそれを唱えたフロイトが、知恵ある人として世界中から慕われ、そして精神分析の手法とともにこれらの概念が世界中に広まったという事実がある。フロイトはナチス政権下のオーストリアに住んでいたが、ユダヤ人であったため何度も家宅捜索を受けていた。あわやガス室で処刑される手前まで行った彼を救うべく、当時のアメリカ大統領のルーズベルトまでもがヒトラーに電報を打ったほどだ。結果、フロイトはロンドンへと亡命することに成功したが、直後に彼の四人の妹はガス室送りとなってしまった。

クリムトの有名な絵画『接吻』。19世紀から20世紀に移り変わる前後のウィーンでは、
フロイトだけでなく哲学者のウィトゲンシュタイン、作曲家のシェーンベルク、そしてクリムトと特異な才能が次々に姿を現している。この『接吻』は中公文庫の出している『精神分析学入門』の旧版で表紙だったが、そういうわけでやや安直ながら今回は記事トップ画像もクリムトにした

 話が再びそれたが、フロイトの提唱した説の中でも特に「汚い」ものとして、排泄に関するものがある。フロイトによれば、人間の性感情はいくつかの段階を経るもので、出生後に「口唇期」から「肛門期」へと移行するという。この肛門期においては、赤ん坊は排泄物を自らの唯一の生産物であり母親へのプレゼントとみなしているらしい。一方で大便は自らの内側に保持する秘密の象徴であり、すなわち便をため込むことは親に自分のすべてをゆだね預ける無力な状態から親と自分を分離し個人を確立する状態への移行に対応するのだという。
 記事を読んでいる皆さんの気持ちはよくわかる。実際、こういったフロイトの主張を聞いて、彼の同僚であった精神科医のユリウス・ワーグナー=ヤウレックは「彼は狂っている(穏やかな意訳)」と述べたらしい。ところで、このユリウス・ワーグナー氏はノーベル賞を受けているが、その受賞理由は神経梅毒の患者に対してマラリアを移植するというすさまじい治療法を確立したことである。いくら抗生物質が発見されていなかった時代のことと言っても、現代から見ればどっちもどっちではないだろうか。
 フロイトの主張で珍妙に聞こえるものは他にもあるが、男性が母親に対して恋愛感情を持つという「エディプス・コンプレックス」や、細長いものすべてを陰茎の暗喩として捉える「ファルス」などが有名だろう。ところで、これらの多くは、女性も元々は精神的に男性であってどこかで女性になっていくという発想に基づくものだ。さきの「エディプス・コンプレックス」にせよ、女性のそれは男性の亜型、つまり男性の派生形として女性のエディプス・コンプレックスがあるとフロイトはみなしていた。
 この男性原理はのちにさまざまな方面からの批難を浴びることとなる。そして俺の提唱する「男性は永遠の処女説」もまた、フロイトの立場に異を唱えるものだ。ではそれはどういう説なのか。処女喪失という体験がおそらく精神分析においては重要であるということは、ここまで述べてきたことから自然な考えとして納得してもらえるだろう(実際重要なのだが、それはまた次の記事で述べる)。
 我々男性は膣を持っていないし、処女膜を破られる機会もない(手術で女性器を持たない限りは)。それは当たり前なのだが、膣の入り口のようなものを最初から持っていなかったのではなく、実は「元々は持っていたのだが、後でふさいだ」というのが正確なところだ。その縫い合わせは胎生3か月の末にようやく終了する。つまり、女性の大陰唇にあたる部分が合わさって陰嚢になったということなのだ(わかりやすい図が見たいという方はこちら。京都大学大学院医学研究科のサイトより)。
 このことを俺が初めて知ったのは高校三年のころだった。さすがにびっくりしたが、とはいえ我々男性は、陰嚢の左右の間をいかにもそれらしい縫い目が走っていることをよく知っているのである。男性の体も元々はおよそ女性の体を元にして作られている。乳首という本来意味のなさそうな器官が男性にもあるのはその名残だ。
 さてこの左右の癒合が起きる少し前、胎生三カ月目には、脊髄は胎児の体全体を貫くようにして伸長しきっている。そこから全身の感覚神経が伸びているわけだが、ではここで気になるのが、処女喪失を感知する神経は果たしてこの時点でどの程度できているのかということである。実を言うと、女性と男性の生殖器ができはじめるのはさらに早く、胎生7週目ごろだ。だから女性器に対する感覚神経なんてものができはじめる前に性は決定しているという考えの方が妥当ではあるだろう。
 しかし先ほど述べた通り、男性にも乳首が残っている通り、女性において本来よく機能すべきだったものが男性の生殖器周辺のどこかに残っていてもおかしくはない。あるいは、精神的な性分化に個人差があることについては現在も議論が続いているところだ。
 何よりも、性感情について男性のそれをベースに女性のそれを亜型として解釈したフロイトの説が精神分析の基礎を作っていて、それが事実として機能しているのであれば、処女喪失という女性への精神分析のうえで重要な概念が男性のそれにも当てはまるかもしれないと考えることは、そこまでの暴論とも俺には思えないのである。もしかしたらこの点での我々男性の男性らしさとは、文字通り「縫い合わされた」ものでしかないかもしれないのだ。いずれまた述べるが、もっともらしく立派にできあがっているものが、実は縫い合わされてできたものにすぎないというイメージは俺個人にとっても重要なモチーフである(脳科学でなら、進化の流れにおける前頭葉の位置づけがそれにあたる。最も知的で他の脳領域を支配するこの部分は、進化的に最も遅れて生じたのだ)。
 さて、こういった観点から精神分析を見直すために、先日からちまちまと俺は資料を集めてフロイトについて調べていたわけだが、フロイトに関して意外な面をいくつも新しく知って驚いた。
 まず、男性を基準にして女性を理解しようとしたというフロイト理解と相反するかのようだが、少なくともヒステリーへの理解という点では、フロイトは当時としてはかなり男女を平等にみていたらしいことがわかる。フロイトが若かりし頃、ヒステリーという病態は女性にしか起きないというのが定説だった。有名な話だが、そもそもヒステリーという語が古代ギリシア語で子宮を意味するὑστέραに由来している。まあ、ここまでは比較的知られた話だ。
 実際にフロイトが大学で男性のヒステリー患者の症例を発表したところ、会場は騒然となって非難ごうごうの嵐となったという。もちろんヒステリーが女性の病気だというのは誤謬であり、男性だってヒステリーになりうる。根強い反論にも屈せず、フロイトはヒステリーが両性に起こるものだと主張し続けた。これに限らず、精神分析の根幹をなす様々な概念が一見下品であるためあらゆる方面から批難を浴びたことへ耐え忍んでいたことも考えると、フロイトはまさに忍耐の人だったとわかる。
 またフロイトと言えば精神分析、もう少し雑に言うならば精神医学の人であり要するに心の病を解き明かそうとした人であるとのイメージが一般的だろう。しかし若かりしフロイトは今でいう神経内科医であり、その診断技術は卓越していた。ウィーン大学に属する他の医者が見抜けなかった症例が壊血病によるものだと指摘したり、また別の症例では当時知られていなかった急性多発性神経炎をも見抜いた。
 神経に異常がある患者とヒステリーの患者の肢体の動きを遠目でも判別できるという特技をフロイトが持ちえたのはまさにこの神経内科医としての臨床経験あってのことだし、また物理学などと同じ自然科学の方法で人間の神経を研究できるのと同じく、人の心も自然科学のような法則に従うはずだという大テーゼが精神分析のモチベーションを成していたようである(このテーゼにはもちろんいくつも反論があったし、ユングによる精神分析がその例だろう)。
 そもそもフロイトが師として仰いだシャルコーは、心の病を専門に研究していたというわけではなく、神経の病を研究しつつも催眠の研究も行っていたというのが正確なところだ。シャルコー病、という呼び名が今どのくらい知られているかは微妙なところだが、ALS、筋委縮性側索硬化症との名前は多くの人に聞き覚えがあるのではないだろうか。この難病を初めて報告した人こそシャルコーである。シャルコーは他にも、多発性硬化症やパーキンソン病といった疾患へと医学のメスを入れて歴史に功績を残した人でもある。このシャルコーが、健常者に催眠をかけてヒステリー患者のような挙動をさせるのに成功していたことが、フロイトをヒステリー研究の道へと導いたようだ。
 調べていて個人的に驚いたのは、アイデンティティという概念の由来がフロイトにあったことである。「自己同一性」との日本語に訳されるこの概念を提唱したのはエリクソンということになっているが、そのエリクソン自身が、同好会の招待状にフロイトが書いた「内的アイデンティティ」という語が元になったと述べている。
 さて、主にフロイトについてざっと述べてきたが、これら情報の多くは二次資料や三次資料、またはそれ以降のものにあたって得たものだ。つまりフロイト自身の書いた本などを俺が直接読んだわけではない。もちろん『精神分析学入門』は一応買いはしたのだが、これは100年前の講義であってすなわち無意識という発想自体がまだ常識ではなかったころのものである。それゆえ、聴衆に対してなんとかわかってもらおうとして今からみると異様なほどまどろっこしい、迂遠な話し方がずっと続くのだ。
 この記事の冒頭でも述べたが、いかに現代の発達した人間観が漫画やアニメといったポップカルチャーに反映されているかをよくわからされた次第である。自分に嘘をつく、という現象がここまで世間で広く納得されていて、誰もが読む物語にその原理が用いられているということ自体、フロイトの時代からすれば驚異的なことだろう。
 もしこの記事を読んでフロイトの精神分析に興味を持った方は、講談社現代新書から出ている『フロイト思想のキーワード(著:小此木啓吾)』を読むことをお勧めする。この本でも言われているが、フロイトは書くことを楽しんでそれを心の糧としていたフシすらあるため、その著作は膨大な量となる。だから我々素人がフロイト自身の著作にあたってその思想の面白いところを探したり要点を掴んだりするのは大変な労力であり、こういうフロイト研究の専門家が書いたものをとりあえず読むのがいいのではないだろうか。
 それはそれとして、この記事は連載の第一回である。次回以降は、フロイトの男性原理を批判した様々な論を紹介しながら、先に述べた俺の仮説がどのくらいのものなのか素人の立場から検討していくつもりだ。読むべき資料の多さを考えると第二回がどれだけ先になるかはわからないが、いちおう期待していただけると嬉しい。なにしろ精神分析は俺が小説を書く上でも重要な手法であるから、けっこう気合が入っている。ただ俺自身の態度がフロイトのそれとは大きく異なるのは、心に浮かんでくる様々なイメージの意味内容を解き明かそうとせずに、むしろイメージが湧いてきたらその中でどこか目立つ部分を見つけ、同じような部分を持つ別のイメージをいくつも重ねていき、それらを解釈せずにひたずらイメージを積み重ねて最終的にどんな形に組みあがるかわかるまで待つ、というところにある。まあ、最終的に強度のある形に組みあがらなければ小説としては没にするしかないのがこのやり方の難点だ。だから俺は小説に関して筆不精なんだな……
 ところでそうした営みの結果なんとか書きあげた作品のひとつが、先日に筑摩書房様より発売された書籍『太宰治賞2023』に掲載された。参考文献リストの下にAmazonへのリンクを貼っておくので、みなさん買ってください。そして読んでください。お願いしましたよ!

おもな参考文献:
『フロイト―その思想と生涯』 著:Rachel Baker 訳:宮城 音弥
『フロイト思想のキーワード』 著:小此木 啓吾
『ラングマン人体発生学』 第11版
『精神分析学入門』 著:Sigmund Freud 訳:懸田克躬

追記:
 ところでなぜ、「男性が永遠の処女である」という突飛なこと極まりない主張を思いついたかといえば、幼少期に通っていた耳鼻科でのことを思い出したからである。俺は小学校に入ったころまで非常にアレルギー性鼻炎の症状が重く、鼻腔の奥にまで膿のまじった緑色の鼻水が一年中詰まっていた。いくつもの医療機関をたらい回しにされたあげくたどり着いたのが、大阪府は堺市の、とある小さな耳鼻科医院である。ここでの治療は苛烈を極めた。減感作療法の注射、やたら苦い漢方を含む大量の投薬、ネブライザーという機械によるステロイド吸入など、それらの中でもとくに著明な効果があったのがBスポット療法というやつである。
 長い棒の先につけた薬剤を鼻の奥に塗布するというこの治療は、むくんだ鼻粘膜がぎっしりと閉鎖しているところに棒を突っ込むのだからそれはもう痛いものだった。インフルエンザを疑ったときに綿棒を鼻の奥に入れる例の検査を数年に一度俺も受けるが、あれの数倍は痛い。年単位で閉塞していた鼻腔へ、無理矢理に押し込められた細長い棒の先端が割って入り、ぎっちりと詰まった密を破ったとき、鼻の奥で風船がはじけたような感覚は今でもはっきりと覚えている。当然幼い俺は泣き、院長に殴られ、わんわんとわめきながら診察室を出た。ドアをくぐった瞬間しかし、鼻にそれまで一切の通気が許されなかったのが、鼻腔の奥にまで新鮮で涼やかな空気が流れ込んできたとき、俺は目の前が一気に晴れ渡ったかのようであった。大げさな言い方をすれば、鼻閉というひとつの時代が終わったということだ。
 これはもしかしたら、疑似的な処女喪失体験ではないだろうか。20年あまりのときを超えて、ふとそう考えついた。精神分析の考え方からすればこの案はそれなりの説得力を持つのではないだろうか。次回以降でまた触れるが、精神分析はメタファー(隠喩)によって象徴される物事の意味をたどっていくところにこそ奥深さがあるといえるだろう(俺専門家じゃないし知らんけど)。
 初めてあの耳鼻科で治療を受けたあの日以来、俺は自分の体、脳の正面に穴が開いているという感覚とともに生きている。もちろんそのあとすぐに鼻は再び閉じてしまったのだが、根気よくその耳鼻科に通い続けた結果、なんとか常時鼻で息ができるようにはなった。
 中国の古典に出てくる混沌氏は、客をもてなしてそのお礼として体に足りていない穴を開けられ、内的な秩序を失って死んでしまったという。俺自身も依怙地な人間だから、外からものが流れ込んできてショックを受ける混沌氏の気持ちはわかるが、深呼吸をして鼻の通り道から空気を吸い込んでみると、やはり外との交通は重要であると身に染みて実感する次第である。だから物事は包み隠さず、お通じも気前よく出てくれると嬉しいですね。

みんな、食物繊維とってる?

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