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「幼児洗礼」=Infant baptismについて



紀元前1世紀から2世紀は問題にならず


この間は、私と個人が、あるいはその後継者たちが個人を相手に説教し、入信を勧めていた時期であるので、ある家族を入信させても、その幼児を洗礼させるかどうかはほとんど問題にならなかった。

紀元前3世紀に常態化


この頃になると、キリスト教入信は家族ぐるみのものになってきているので、当然、幼児洗礼は常態化していたと思われる。

この頃、常態化していた「幼児洗礼」を支える神学問題とは、次のようなものがあった。「この世に受肉して生まれた人間は、当然、人間の罪業をも背負って生まれてきているので、幼児であろうとも清らかでは無いはずだ」というのである。

その根拠は、例えば「新約聖書」のうちの「ヨハネ福音書」(3節-5)などに認められる。イエスは答えられた。「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。御霊によって生まれたものは霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、と私が言ったことを不思議に思ってはなりません」。この文言は要するに、幼児もまた受肉して生まれたのであるから、そのままでは天国に入ることができない、したがって幼児洗礼で清められなければ、成人しても神の国に入ることができないのだと言うのである。

アウグスティヌスが確立した「原罪の神学」


そして、神学的に「幼児洗礼」を基礎をづけたのは、あの紀元4世紀から5世紀にかけての聖アウグスティヌスであっただろう。彼、アウグスティヌスは「原罪の神学(original sin)」を確立したことによっても有名であった。

(注)原罪とは、あの人類最初の人間アダムが神の戒めに従わず、知恵の実を食べ、傲慢にも神にも比敵する力を得たと過信し、神によってエデンの園から追放された人類最初の「罪」のこと。

アウグスティヌスはアダムが犯したこの現在を、アダムの子孫である人類全てが背負っている。したがって、幼児といえどもこの原罪を背負って生まれてきたのであるから、幼児もまた洗礼によってしかその原罪から逃れることはできないのだと言うのである。後ほど中世最盛期のあのトマス・アクィナスもまた、洗礼を授け、教会を通して幼児もまた、教会の役割を認識するようになっていくのだと主張している。→幼児洗礼を積極的に進めているのである。

ルターは認める立場に


では、再び、ここでルターの問題に戻ろう。以上のような普遍教会の信仰形態に対して、ルターは普遍教会の聖職者たちを中心とする信仰形態に対し異議を唱え、「各人が聖書を読み、キリスト教を知り、かつ信じることによってのみ信仰が成り立つこと」を主張したのであった。とすれば、聖書を読む能力をいまだ持たない幼児の洗礼は否定されるべきものであった。ところが、なんとルターはこの幼児洗礼を積極的に認めることになるのである。これがルターの宗教改革の問題点であった。次回、このルターに批判的であり、「再洗礼を受けさせるべきだ」と主張したトマス・ミュンツァーについて取り上げる。

「キリスト者の自由」に見る異端の思想


ここから先は予備知識になるが、「キリスト者の自由」(1520年)、これはルターの宗教改革宣言の書である。
「教会を通しでなく、信仰によってのみ自己を超えて神へと至り、愛によってのみ神から自己になる」という文言の中に、中世以来の神秘主義思想の影響が濃厚に認められる。

要するに、ルターは、14世紀のあのオッカム的「唯名論」の立場をとるヴィテンベルク大学で学び、その他、「落雷の体験」や「塔の体験」といった神秘的体験をしているので、中世以来の異端の思想をすべて身に受けて、信仰生活に入っていたわけである。


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