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眠れない夜は

ある金曜日、私は教習所でハンドルを握っていた。
「はい、ハンドルは少しだけ回して。急に回す必要はないですよ。曲がったら、はい、遠くを見ましょう。」
20キロにも満たないスピードでノロノロと進む。ぎこちなくハンドルを回す。
「はい、急ブレーキ、急ハンドルは必要ないですからね。遠くを見ましょう。」
あと数時間で夜が来る。大嫌いだった金曜日の夜が。

やっと眠りに落ちた娘が目を覚まさないように、ゆっくりとソファに腰を下ろして、身を固くする。
静かな薄暗い部屋で、聞こえるのは娘の寝息と扇風機の音だけ。その扇風機の音でも、娘が起きてしまわないかと、ひやひやしながら、祈るようにじっとしている。

なかなか既読にならない友人たちへのラインを見て気が付く。
「ああ、そうか。金曜日か。」
きっと、オフィスを早々とあとにして、不思議な高揚感と共に、一週間のいろいろを発散しているのだろう。好きなものを飲んで、食べて、少し軽くなった体に、夜の風が気持ちよく触れる。
少し前までは、私もそこにいた。でも、もういない。

世の中に自由があふれている金曜日の夜に、私はソファで自由を奪われていた。真っ暗な世界で、押されて、潰されて、体がぱちんとはじけてしまいそうだった。

ふと、腕に重みを感じる。娘が膝の上で、伸びをしている。目をぱちりと開いた娘と目が合う。またゆっくりと目をつぶる。しばらくして、また規則的な寝息が始まる。寝るんかい。冷たかった体に娘の体温が伝わった。娘の頬に触れると、また体が膨らんだ。

あれから、何度も金曜日の夜を娘と越えた。友人たちをうらやましく思ったことも、泣く娘と一緒に泣いたこともある。でも、乗り越えた。そして、いつも朝は来た。

いつだって、どんな時だって、急ブレーキ、急ハンドルは良くない。
一度大きく息を吸って、吐いて、遠くを見て。そして、ノロノロ進む。

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