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拝啓 佐野洋子サマ。私だって『死ぬ気まんまん』!

もう長生きしたいと思うのをやめた。
死ぬのはイヤだけど、ワケもなく長生きなんかしてどうする。
そんなことを思うと元気が出てきた。
どうしよう……長生きしそうだ。

いま、佐野洋子のエッセイ『死ぬ気まんまん』が浸みている。
あの絵本作家にしてエッセイストの佐野洋子、『100万回生きたねこ』の佐野洋子である。
私は密かに洋子サマと呼び、親近感100%の友人みたく思い馳せてる女流作家だ。72才(2010年)で亡くなられたけど、本を開けば元気な笑顔がよみがえる。

文句を垂れても情がある。スパッと斬ってもユーモアがある。
ガハハと笑い飛ばしてくれる豪気の裏の繊細さ。
そんな男前な可愛らしさが文章の中にどでーんとしてる。


洋子サマのエッセイは、読むというよりちょっと本に遊びに行く感じ
だから常に2〜3冊のエッセイが本棚から飛び出して、Macの横に転がっているのだ。ひとつひとつが短くて、挨拶とかおしゃべりする感覚でパラパラパラと。
『あれも嫌い、これも好き』とか、『ラブ・イズ・ザ・ベスト』とか。

洋子サマの死後に発行された『死ぬ気まんまん』(2011年6月初版)も、なんど読んでも飽きることがない。

これはガンで余命宣告されてから書かれたエッセイで、屈託無く死を受け入れ、狼狽うろたえずに日常を過ごすさまがあっけらかんと明るく爽やか。
でもハッとする。

告知を受けてジャガー買って乗り回したり、闘病記なんか大嫌いだ、70歳そこそこで死ぬのが一番いい時期、なんて言ってみたり。
そういうのがドキッとするような、それでいて身近な普通のことばで綴られている。

ちょっと引用してみよう。

死ぬことが間近になったら、死んだらお金はかからないということに気がついた。
 部屋をぐるりと見わたすと、全部買ったものばかりである。茶碗から箪笥たんす、横に壁が見えたから家も買ったのである。
 もらった花が不思議なバラ色をして暗く咲いているが、これもくれた人が買ったのである。私はぎょっとした。私は金のためにずーっと働いていたのだ。

光文社『死ぬ気まんまん』佐野洋子著より

 今、私が驚いているのは、「踊る大捜査線」に出てくる柳葉敏郎が歯をくしばって額に青すじを立て続けていることである。奥歯がすり切れるのではないかと、ずっとずっと気になっている。
 もうすぐ死ぬっていうのに、こんな人生でよいのだろうか。
 私は本当にミーハーだった。

光文社『死ぬ気まんまん』佐野洋子著より




私は再読10回目くらいまで「死」を考えながら読んでいた。
それ以降の再読では、「生」についてしか考えなくなった。

そのきっかけになったのは、私の母のことである。
認知症を患っている母に対する、はばかれる思いが私を変えた。



今年の年明け、私は母が入所している施設を訪ねた。母はこの半年で、急速に記憶とオサラバしている。もう誰のこともきれいすっかり、自分が誰かもわかっていない。

今までだって、「ママ」って呼びかけたらキョトンとして「えーアンタ、私の娘? ほんまに?」なんてカラカラ笑ってはいたけれど。

でも今回は、薄茶になった瞳をキョロキョロさせて戸惑うだけ。私のことばが理解できず、表情が強ばっていく。
だからもう、二度とママと呼びかけない。二度と呼ぶまいと、ことばを飲んだ。


こんな母でも『瀬戸の花嫁』がフルコーラスで歌えるのだ。いきなり歌い始めるから、慌てて一緒に歌うと上機嫌になる。
歌いながら介助されてよたよた歩く後ろ姿を見て、ママでないママになった距離を感じた。
その刹那、異様に熱い涙が溢れそうになり、気づかれないよう顔を上げる。

だって私、思ってしまったんだから。

こんなになってまで、なんで生きてるんだろうって。嫌だ。ここまでして生きてたくない。

自分の親をそんなふうに思う日が来た。

その反面、機嫌良く楽しそうに生きてくれていることに感謝もしている。施設の職員さんの手厚い介護が嬉しくて、これからも母を見捨てないでほしいと拝み倒すように願ってしまう。

なんなんだ、このアンビバレントな感覚は。



帰りの車の中、頭で考えるよりも先に「アタシ今、死ぬ気まんまん」と呟いてしまった。

死にたいと思ったのではない。
今を、今以上に十分生きたいと思ったのだ。
生きて生きて生き尽くしてやろうと、強欲ババァかと思うほどに焦りまくった。

洋子サマは2年というリミットを知らされ、アッパレなほど納得のいく余生を送られた。こんなこと、「死」を無視していたら絶対出来ない。
『死ぬ気まんまん』には、そんなことが元気いっぱいに書かれている。


私はリミットを切られたわけじゃない。だからいつ死んでもいいようにやりたいことを納得するまでやろうと思う。

これまで人に迷惑かけることはやっちゃいけないと信じていた。
よくよく考えたら何をやっても誰かに迷惑はかかるもんだ。大なり小なり。
だから迷惑かけるリスクを背負って、何でもやりゃあいいんじゃないの。

元気が出たら、母から目を背けようと思わなくなった。きっと幸せなんだ。赤ん坊に戻って笑って歌を歌って可愛がられてる。
あなたはその情を、受ける土壌を育てて来た人なんだ。
なのに私、じぶんを投影して不幸がってゴメン。

私は面倒みてくれる子供も産んでないし、施設にどっぷりお世話になれるほどのお金も残せないだろうし、どっちにしたって母の人生はなぞれない。

私が医者から余命宣告されたら、途端にアタフタして落ち込むだろうとも予想できる。

そのときが来て、あれこれ思うことを全部やっていたら「よし!コンプリート」って言っちゃおうか。清々しいわ。ラッキーだわ。

だから私も「死ぬ気まんまん」でいきたくなった。
生あるうちに、誰かに「あなたが大好き」「あなたが必要」と心の底から思われたい。思われるような意味あることをしてみたい。
いろいろ考えるだけで忙しい忙しい。

長生きを願うより、私はスパッと死ぬ未来を考える方が元気出る。

拝啓、佐野洋子サマ。
私も「死ぬ気まんまん」です。
私自身をコンプリートすべく、
今日も突っ走ります。

タカミハルカ心の声




*『死ぬ気まんまん』の書影は、出版社が再利用を許諾しているものです。
版元ドットコムサイトから使用しました。


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