マガジンのカバー画像

戦国馬出曲輪

37
戦国時代をテーマにした記事を集めました。明朝の出陣を控える城中、かがり火に照らされながら、しばしゆるりと酒を飲む気分でどうぞ。
運営しているクリエイター

#石田三成

関ヶ原合戦で歴史的な大遅参! 徳川秀忠は本当に「ダメな奴」だったのか?

今回は前回に続いて関ヶ原合戦が舞台ですが、テーマが少々異なります。 突然ですが、「遅刻」って嫌なものですよね。遅刻する方もされる方も、いい気持ちはしません。ましてそれが大事な約束、大切な大舞台でのことだったら……。想像するだけで、冷や汗ものでしょう。 そんな大舞台での大遅刻をやらかし、後世にまで「ダメな奴」のレッテルを貼られてしまったのが、徳川秀忠(とくがわひでただ)でした。大軍勢を率いながら、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わなかったのです。しかし近年の研究で、それは秀忠の

小早川秀秋の裏切りはいつ? 毛利輝元は何を狙った? 関ヶ原合戦の真実を探る

日本史上における天下分け目の合戦といえば、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦がまず挙がるでしょう。東西両軍およそ15万が衝突し、勝者となった東軍の主将・徳川家康(とくがわいえやす)が天下の覇権を握ることになったのは、よく知られるところです。しかも、東西両軍の激戦が演じられる中、勝敗の決め手となったのは、西軍と見られていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りでした。 まさにドラマチックな展開だったといえますが、近年、これに疑問符がつくようになりました。小早川秀秋は本当に土壇

「人望がない」石田三成の血筋はなぜ守られたのか? その素顔を探ってみよう

昨日は石田三成の人物像が、徳川幕府の意向もあって、江戸時代の史料でいかにゆがめて語られてきたかについてまとめた記事を紹介しました。本日はその続きとして、三成の処刑後、子孫が生きのびていたこと、また子孫を匿(かくま)ったのが、陸奥(現、青森県)の津軽(つがる)家であったことをまとめた記事を紹介します。 三成は人望がなかったのか関ヶ原合戦前、石田三成は挙兵する決意を親友である大谷吉継(おおたによしつぐ)に打ち明け、同意を求めました。これに対し吉継は「内府(だいふ、徳川家康のこと

石田三成はなぜ、悪者にされたのか? 歴史を記す側の裏事情

石田三成という武将を、ご存じの方も多いでしょう。天下分け目の関ヶ原合戦の折、東軍を率いた徳川家康に対抗し、西軍の中心となって戦った人物です。しかし三成の評価は、最近でこそ名誉回復されつつありますが、江戸時代以降、長い間、「佞臣(主君にへつらう、心のよこしまな家臣)」として扱われ、貶められてきました。今回は、史料が事実を伝えているとは限らないことの一例として三成を取り上げ、その実像を探った記事を紹介します。 史料はどこまで事実を伝えているのか「歴史は勝者によってつくられる」と

影武者は本当にいたのか

黒澤明監督に『影武者』という映画がある。 戦乱の世に、本人そっくりの人物を仕立てて 敵や味方をあざむいた影武者は、実在したのだろうか。 武田信玄の影武者は弟だった 戦国時代、影武者を使ったことで有名な武将の一人が武田信玄です。 黒澤明監督の映画『影武者』(主演:仲代達矢)では、武田信玄の急死後、風貌が似ていることから盗賊あがりの男が抜擢され、信玄は健在であると、敵はもちろん武田家中をもあざむく物語になっていました。 映画では、盗賊あがりを起用したのが信玄の弟・逍遥軒信

戦国の「軍師」とは何者なのか

武将に仕えて戦略や戦術を進言し、 味方に勝利をもたらす軍師。 小説の『三国志演義』に登場する諸葛孔明のような天才は、 戦国時代の日本に存在したのだろうか。 戦国武将に仕えた軍師の2つのタイプ 敵の意表をつく用兵、頽勢(たいせい)をくつがえす妙案。難敵を神算鬼謀で打ち破るようなイメージが、「軍師」にはあります。『三国志演義』で描かれる蜀の劉備を助けた天才軍師・諸葛孔明がその代表的存在でしょう。 日本でもたとえば戦国時代に軍師として知られる人物に、羽柴秀吉を助けた竹中半兵衛