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戦国馬出曲輪

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戦国時代をテーマにした記事を集めました。明朝の出陣を控える城中、かがり火に照らされながら、しばしゆるりと酒を飲む気分でどうぞ。
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記事一覧

【どうする家康・家臣列伝2】息子2人の後見を託された誠実な側近・平岩七之助

徳川家康の家臣というと、まず名前が挙がるのが本多平八郎忠勝や、井伊直政、酒井忠次、榊原康政の、いわゆる「徳川四天王」と呼ばれる面々でしょう。四天王の筆頭は年長の酒井とされますが、一般的な知名度は本多や井伊の方が上であるように感じます。 この4人にさらに12人を加えた、「徳川十六神将」(「徳川十六将」)という括り方もあります。鳥居彦右衛門元忠や大久保忠世、忠佐兄弟などが名を連ねますが、今回取り上げる平岩七之助親吉も、その中の一人でした。 放送中の大河ドラマ「どうする家康」で

【どうする家康・家臣列伝1】 「三河武士の鑑」と呼ばれた鳥居彦右衛門の真実

最期の姿を伝える「血天井」 大学生のときのことですので、今から40年近く前の話です。京都の養源院(東山区)で、「血天井」を拝観しました。 血天井とは、ご存じの方も多いと思いますが、戦国時代に武将らが自刃した際の血痕が残る床板を、供養のために寺の天井に張ったものです。養源院のそれは、関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城の戦いの折、守将である徳川家の鳥居彦右衛門元忠らが自刃した際のものでした。 板には手のひらや足の裏のかたちの血痕がありありと残り、中には床に倒れ込んだ横顔ではないか

小弓公方足利義明の記事で思うこと

久しぶりの投稿です。 昨年は戦国時代の、小弓公方足利義明の記事を小学館の和樂webに書くため、千葉市の小弓城跡や、市川市の国府台城跡、松戸市の相模台城跡など、何度か千葉県に取材に出かけ、それぞれnoteの記事にしました。ところが小弓公方の記事を書き終えた昨年秋頃から、毎月の和樂web執筆と月一回の講座準備に追われてしまい、心ならずもnoteから遠ざかってしまった次第です。 今回は、昨年秋に和樂webにアップした小弓公方の記事を紹介するのが目的のnote投稿ですが、 最近少し

明智光秀も登場! 京都から伊勢、奈良、山陰をゆく島津家久の戦国あばれ旅

少し間が開いてしまいましたが、先日(2020年11月11日)、薩摩の戦国武将・島津家久が、天正3年(1575)に串木野(現、鹿児島県いちき串木野市)から京都、伊勢を旅した『中務大輔家久公御上京日記』を解説する記事を紹介しました。 その記事は、串木野から京都に至るまでの、日記の前半部分でした。そこで今回は、京都に滞在しつつ近江、伊勢、奈良に足をのばし、さらに往路とは異なる日本海側のルートで帰途につく、家久の日記の後半部分を解説する記事を紹介します。意外にも家久は、大河ドラマ『

「無礼者はぶん殴れ!」薩摩から京へ、島津家久の痛快な戦国旅日記を読む

鹿児島県の串木野(くしきの)から京都まで、現在のJRの路線で900km余り。この道のりを戦国時代に、軍勢も連れずに旅し、旅程を日記に残した武将がいます。 島津中務大輔家久(しまづ なかつかさだゆう いえひさ)。 戦国の九州にその名を轟かせた島津4兄弟の末弟で、兄弟の中で最も戦(いくさ)上手と呼ばれる人物でした。平野耕太の人気コミック『ドリフターズ』の主人公・島津豊久(とよひさ)の父親といえば、ピンとくる人もいるかもしれません。今回はそんな家久が29歳の時、京都や伊勢神宮へ

【どうする家康】鳥居強右衛門の血の熱さが、長篠合戦のゆくえを変えた

三河国長篠 (現、愛知県新城市)。戦国時代に織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼軍に歴史的勝利を収めた長篠の戦いの舞台として知られます。 大河ドラマ『どうする家康』でも描かれますが、この長篠の戦いのゆくえを、一人の無名の男が変えていたことをご存じでしょうか。 現在、長篠古戦場の近くをJR飯田線が走っています。長篠城駅の隣の駅の名は鳥居駅。鳥居強右衛門という人物に由来しています。この鳥居強右衛門こそが、実は長篠の戦いのゆくえを変えた男でした。今回は長篠城攻防戦において窮地

「桶狭間の奇跡」はなぜ起きたのか? 大河ドラマで描かれない謎を探ってみよう

大河ドラマ『麒麟がくる』はしばらく放送が休止となりますが、休止前の最後の回「決戦! 桶狭間」は話題を呼びました。かつてないほど風格ある姿の宿敵・今川義元(演・片岡愛之助)、一方、従来とは異なるイメージで描かれる織田信長(演・染谷翔太)、そして本来であれば無関係なはずの主人公・明智光秀(演・長谷川博己)。この三者を軸に、史実に独自の脚色を加えて桶狭間の戦いが描かれていました。 しかし桶狭間の戦いは歴史上、今もなお、信長がなぜ大逆転を起こすことができたのか、謎が多いとされます。

「雷切」「竹俣兼光」「人間無骨」…… 戦場で幾多の伝説を生んだ、武将たちの 愛刀・愛槍

人気ゲーム『刀剣乱舞』などの影響もあり、近年は女性を中心に刀剣類に関心を持つ人が増えています。各地の博物館で展示してある刀剣の前に多くの人が集まり、見入っている光景は珍しくなくなりましたし、雑誌やムックで刀剣が繰り返し特集されるのは、それだけよく売れるからなのでしょう。 刀は、もちろん美術品として鑑賞する味わい方もありますし、ゲームのように刀を擬人化して楽しむ世界もあるでしょう。入口はどうあれ、刀を通じて歴史や日本文化に親しむのは、意味のあることだと私は思っています。今回は

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

信長が最も評価していた家臣は明智光秀だった! その足跡を追い、謎に迫る

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、主人公として描かれた明智光秀。美濃(現、岐阜県)の武将で、斎藤道三に仕えたともいわれますが、光秀の行動が同時代史料で確認できるようになるのは、織田信長に仕えてからのことです。。 今回は信長に仕えてからの光秀が、いかに目覚ましい出世を遂げていったか、そのあらましを史実に基づきながら追った記事を紹介します。 信長にとって得難い人材明智光秀の前半生がまったくの謎に包まれていることは、以前に和樂webの記事を紹介しました。ご関心のある方は

人柱伝説、首なし軍勢、落城と亡霊……歴史にまつわる怖い話

世の中には、不思議なことがあるものです。たとえばすでに亡くなって、この世にはいないはずの人の姿が見えたり、何かを伝えてきたり。そんな話は昔からあり、今なお増え続けているようです。怪談というと納涼のイメージもありますが、今回は怖がらせるためのエンターテイメントではなく、そこから歴史の一側面が見えてくるような不思議な話を、体験もまじえつつまとめた記事を紹介します。こうした話が嫌いでない方は、お読みください。 城跡の撮影歴史に関わる仕事をしていたため、かつては取材で寺社や古墳、城

戦国時代にサムライとなったアフリカ人がいた! 信長に仕えた弥助の実像とは

織田信長(おだのぶなが)に、外国人の家臣がいたことをご存じでしょうか。最近では、信長を描いた映画やドラマでも、信長の側に大柄な黒人が控えている様子が描かれることがあります。その黒人がそうで、「弥助(やすけ)」と呼ばれていました。信長は彼を物珍しさから身辺の飾りとしたのではなく、れっきとした家臣として取り立てており、弥助は本能寺の変において重要な役割を果たすことになります。今回は、そんな弥助とは何者だったのかについてまとめた記事を紹介します。 ハリウッドで映画化される『Yas

関ヶ原合戦で歴史的な大遅参! 徳川秀忠は本当に「ダメな奴」だったのか?

今回は前回に続いて関ヶ原合戦が舞台ですが、テーマが少々異なります。 突然ですが、「遅刻」って嫌なものですよね。遅刻する方もされる方も、いい気持ちはしません。ましてそれが大事な約束、大切な大舞台でのことだったら……。想像するだけで、冷や汗ものでしょう。 そんな大舞台での大遅刻をやらかし、後世にまで「ダメな奴」のレッテルを貼られてしまったのが、徳川秀忠(とくがわひでただ)でした。大軍勢を率いながら、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わなかったのです。しかし近年の研究で、それは秀忠の

小早川秀秋の裏切りはいつ? 毛利輝元は何を狙った? 関ヶ原合戦の真実を探る

日本史上における天下分け目の合戦といえば、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦がまず挙がるでしょう。東西両軍およそ15万が衝突し、勝者となった東軍の主将・徳川家康(とくがわいえやす)が天下の覇権を握ることになったのは、よく知られるところです。しかも、東西両軍の激戦が演じられる中、勝敗の決め手となったのは、西軍と見られていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りでした。 まさにドラマチックな展開だったといえますが、近年、これに疑問符がつくようになりました。小早川秀秋は本当に土壇