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人骨と一緒に過ごす話

最近、ある住宅で大量の人骨が見つかり、ニュースになった。
一方で、部屋に大量の人骨を置いて研究を続けた学者もいる。
地中から江戸の人骨2,000体を引き上げた河越博士の研究とは。

住宅で大量の人骨が見つかった事件

ここ数日、テレビなどで、東京都足立区の住宅から500体分の人骨が見つかったと、騒がれています。

住宅の敷地には標本会社の倉庫があり、骨は数十年前に標本用にインドから輸入した外国人のものであったということです。

ニュースでは、住宅の庭に無造作に置かれていて、通行人も目にするような状態であったというのですが、いかに目的は標本の材料とはいえ、かつて生きていた人の骨です。なかなか普通の神経ではそう扱えないのでは、という印象を受けました。

もっとも法医学者のように、日々、解剖で遺体と向き合っているような方々からは、「何をもって普通の神経と言うのか」とお叱りを受けてしまうかもしれません。

標本用の骨の扱いはさておき、研究室に大量の人骨を置いて、研究にあたった学者もいます。

私が愛読している『〈増補改訂〉掘り出された江戸時代』(1975年、雄山閣)の著者・故河越逸行(かわごえとしゆき)氏もそんな一人です。

地中から2,000体の人骨を取り上げる

研究室の人骨のほとんどは、都内の工事現場などで出土した江戸時代のもので、河越氏が自ら出向いて確認し、引き取ったものでした。

河越氏ははじめ歯科医師でしたが、解剖学の分野で東京慈恵会医科大学研究科を修了後、東京慈恵会医科大学から医学博士号を取得、江戸時代の出土人骨の研究にまい進します。同大学の解剖学の講師を務めるかたわら、警視庁の嘱託で、科学検査所法医課(現・警視庁科学捜査研究所)の仕事もしていました。

1950年から1970年の東京は、東京オリンピックを間にはさんで、まさに建設ラッシュの時代。地下を掘るたびにあちこちで江戸時代の人骨が出土します。河越氏は知らせを受けたり、あるいは情報を小耳にはさむと、即座に現場に飛んで、人骨を取り上げました。その数、およそ2,000体に及んだといいます。

地中から骨や物などが出土した際、取り扱いはどうなるのか。それについて、同書の中に短くまとめられています(1975年当時)。

一、 遺失物法により拾得物として所轄警察署に、その発見者は1週間以内に届けなければ違反となる。
一、 人骨でも取り扱いは前記と同様であるが、関連して、犯罪関係の有無が一応問題となるので、警察署によって調査が行われることになる。
そして犯罪関係もなく、しかも引取人もない人骨のときは、その処理は市区町村長に引き渡され、火葬の上、寺に葬られることになる。
個人で火葬したい場合(自分の墓所または近親者のものなどが)は墓地埋葬等に関する法律により所轄保健所長の許可を得なければならない。
また医科大学などで研究の資料としたい場合は、その目的を記して、市区町村長宛、死体解剖のための交付申請書を提出し、死体解剖保存法第13条第1項の規定に基づく死体交付証明書を受領しなければならない。したがって、個人の趣味や都合で人骨を所有したいということはでき得ないことになる。

研究対象として骨に接するとはいえ

河越氏が昭和29年(1954)8月10日から昭和50年(1975)5月19日までの間に、視察・収集に出向いた回数は実に733回。場所は中央区、台東区が最も多く、港区、千代田区がそれに次ぎます。建設工事現場、地下鉄工事現場が圧倒的に多数でした。

その中には、将軍家兵法指南役として知られる柳生飛騨守宗冬墓所での木製総義歯の発見があったり、また後年、怪談で有名になる千駄ヶ谷トンネル上の紀州徳川家の寺院墓地の改修立ち合いなども含まれています。

特に興味深いのが、湯島両門町(現在の湯島4丁目、本郷7丁目)の無縁坂脇の寺院跡発掘で、旗本近藤登之助一族のものと思われる墓地から、真綿を入れた白羽二重の着物を二枚重ねて着て、黒縞の帯を締めた10代の女性のミイラが発見されたこと。河越氏は身分の高い姫君だったのではないかと推測しています。

河越氏はその少女の着物を、研究対象として保管室の部屋の中に、ハンガーで架けていました。そして、少し不思議な体験をしたといいます。

ある日、河越氏は解剖実習室の隣にある、着物を保管した部屋に、静まり返った夕暮れの廊下を急ぎました。その部屋には江戸時代人の頭骨はもちろん、他の部分の骨もたくさん保管していたそうです。

「部屋のドアを開けると、テーブルの上に山と並べられてある江戸時代人の顔は一斉に皆思い思いの眼差しをもって、うす暗い電灯の下で私の方を見ている。そしてその傍らの壁にミイラの着ていた着物をかけておいた。部屋に入った瞬間、平素閉め切ってあるせいか、この中は、心なしか紫っぽい、いわば妖気が立ちこめているとでもいった気配をスッと感じ、身のひきしまる感じをどうすることもできなかった」

「薄暗い電灯の下で、私はその着物を調べ始めた。調べが進むにつれ、右の袖の外側に、うすい黄色の一つの紋所を発見した。(中略)これは、お姫様の身分を明らかにする上にもよい参考資料を発見したと目を光らせ、心をおどらせたが、あいにくといつも持っている愛用のカメラを、今日はどうしたことか、持ってこなかった」

やむを得ず、河越氏はその日は引き上げ、翌日、カメラを持って再び保管室に向かいます。

「ところが、である—白羽二重の着物の紋所を探し求めたが、昨日の場所にはどうも見当たらない。ハテ妙なこともあるものと、あちこちひっくり返して探したが、やはり見当たらない。(中略)私は前夜あの時、あの紋所により、その身分を知りたいと思った。でも、それを知られたくなくて消え失せたのか、などと考えることはあまりに現代離れがするかもしれない。しかし、現世には、まだまだ不可解なことはたくさん現存している

河越氏は多少の供養にでもなればと、少女の冥福を祈る言葉で結んでいます。科学の最先端の研究者で、人骨を研究対象にしている人でも、死者を敬う気持ちがあることがわかります。

日々、遺体解剖にあたる法医学者にしても、河越氏のような人骨の研究者にしても、それが社会や後世の研究に資することを信じて、取り組んでいるのでしょう。そして、人骨を科学的に分析する研究者の視点とは別に、人間として死者への敬虔な気持ちを忘れないことも大切であるということを、河越氏は伝えているように思います。

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