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関ヶ原合戦で歴史的な大遅参! 徳川秀忠は本当に「ダメな奴」だったのか?

今回は前回に続いて関ヶ原合戦が舞台ですが、テーマが少々異なります。
突然ですが、「遅刻」って嫌なものですよね。遅刻する方もされる方も、いい気持ちはしません。ましてそれが大事な約束、大切な大舞台でのことだったら……。想像するだけで、冷や汗ものでしょう。

そんな大舞台での大遅刻をやらかし、後世にまで「ダメな奴」のレッテルを貼られてしまったのが、徳川秀忠(とくがわひでただ)でした。大軍勢を率いながら、天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わなかったのです。しかし近年の研究で、それは秀忠の責任というよりも、いくつかの不運が重なっていたことがわかってきました。今回はそんな秀忠の大遅参についてまとめた記事を紹介します。

姉さん女房に頭が上がらず

秀忠は、徳川家康(いえやす)の3男に生まれました。長男の信康(のぶやす)、次男の秀康(ひでやす)は気性が激しかったようですが、秀忠にはそうした話は伝わっていません。信康は秀忠が生まれて間もなく切腹、秀康は羽柴秀吉(はしばひでよし)のもとに養子として送られたため、秀忠は幼い頃から家康に、後継者的に扱われていたようです。

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秀忠が結婚したのは、17歳の時。相手は秀吉の側室・淀殿(よどどの)の妹・江(ごう、お江与とも)でした。平成23年(2011)には大河ドラマの主人公にもなっています。

江はすでに2度の結婚経験があり、6歳年上の姉さん女房でした。秀忠は、この江に頭が上がらず、正式な側室を持てなかったといわれます。生涯で浮気をした相手は2人で、それぞれ長男(夭折)と4男を生みますが、秀忠は4男を実子として扱いませんでした(その4男が、のちに名君と呼ばれた保科正之〈ほしなまさゆき〉です)。姉さん女房に頭が上がらないというエピソードも、「ダメな奴」というイメージを増幅させたのでしょうが、女房に頭が上がらなかったのは他の武将でも少なくなく、秀忠だけが特別だったわけではありません。

家康は東海道、秀忠は中山道

さて、関ヶ原合戦の話に移ります。関ヶ原合戦の発端(ほったん)は、徳川家康が仕掛けた会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)征伐でした。上洛命令に従わない上杉が謀叛を企んでいるとして、豊臣秀頼(とよとみひでより)の名のもとに、大坂城から家康自身が大軍を率いて、東に向かったのです。ところが家康が征伐に向かっている最中、大坂城で石田三成(いしだみつなり)らが家康に対し宣戦布告。その知らせを受けた家康は、自分が率いる諸将と相談の上、上杉征伐を中止し、反転西上して石田三成らと戦うことに決しました。

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この時、家康は徳川軍を二つに分け、自分が率いる本隊は東海道を、秀忠率いる別働隊は中山道(なかせんどう)を西上することにします。軍勢の数はどちらも3万を超す大軍でした。ルートを分けたのは、万一どちらかに支障が起きても、一方は戦場に赴けるようにとのリスク管理だったとされます。

秀忠は余計な上田攻めをしたために遅参したのか

さて、従来語られてきた説では、中山道を進む秀忠は行きがけの駄賃にと、石田三成らに味方する真田昌幸(さなだまさゆき)の信濃(現、長野県)上田城に寄り道し、これを攻めますが、昌幸に翻弄(ほんろう)されて惨敗。家康に命じられてもいない城攻めに失敗したあげく、貴重な日数を費やしたために、肝心の関ヶ原合戦にも間に合わなかったとされてきました。

それが事実であれば確かに「ダメな奴」といわれても仕方がありませんが、実際はどうであったのか。和樂webの記事「そりゃ、あんまりだ…徳川秀忠、関ヶ原『世紀の大遅参』の理不尽な真相とは」をぜひお読みください。

人間の価値を決めるもの

記事はいかがでしたでしょうか。関ヶ原遅参の原因が、必ずしも秀忠に起因するものではなかったことがおわかり頂けたことと思います。ただし、遅参の不名誉な事実は動かしようもなく、家康としては秀忠を後継者とした時に、諸大名がどう出るか、不安を覚えたのかもしれません。家康が秀忠に将軍職を譲った後も、「大御所」としてにらみを利かせていたのは、そうした意味合いもあったのではと想像します。

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とはいえ、記事中にも記しましたが、関ヶ原で秀忠が家康の指示に反した行為は一つもなく、家康とすれば、やはり安心して事業を譲ることのできる後継者だったのでしょう。秀忠にすれば、不運に直面しても実直に務めを果たそうとしたことが結果的に評価されたわけです。ごまかすのではなく、上手くいかない時にはいかないなりに、最善を尽くしたかどうかこそが、人間の価値を決めるのかもしれません。

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