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都内にあった上杉氏、北条氏の知られざる最前線・東京都葛飾区の葛西城

戦国時代、おうぎがやつうえすぎ氏、相模さがみほうじょう氏、えちなが氏らが奪い合い、ぼうが在城し、最後はとくがわ勢に攻め落とされた城が、東京23区内にありました。さて、その城はどこか? そう問われて、即答できる人はあまりいないかもしれません。

答えはかつしか区の西さい城」です。

しかし、その名を聞いても、「?」と思う方も少なくないでしょう。葛西城の知名度は決して高いとはいえないからです。

私も以前、23区内に残る城跡について記事にしたことがありますが、その時、葛西城は取り上げませんでした。戦国時代に強豪らが奪い合い、古河公方も在城したことがある重要な城であるならば、真っ先に挙げられてもおかしくないはずなのに、なぜなのか?

それは現在、城跡を訪れても、地表で遺構を確認できないからです。

今回は都内でも指折りのエピソードを秘めた城跡ながら、戦後の開発で、ある意味ぐうをかこつことになった葛西城について解説した、和樂webの記事を紹介します。

堀跡から出土した女性の首

葛飾区郷土と天文の博物館。こちらには、葛西城の発掘で出土した品々が収蔵されています。珍しい中国げん代のとうの優品や茶道具をはじめ、日常の食事に用いたであろうしつ、そして武具など、明らかにこの城で生活し、戦った人たちがいたことを物語っています。

葛飾区郷土と天文の博物館「戦国時代の漆器」展図録

収蔵品の中で特に私が関心を抱いたのは、女性の頭骨が出土していることでした。墓地に埋葬されたものであれば珍しくはありませんが、その頭骨は斬首されており、城の主郭北側の堀の中から見つかったというのです。調査の結果、その女性の年齢は25歳から45歳の間で、首を打たれる前におうされていた可能性もあるようです。その骨から顔の復元が試みられ、葛飾区郷土と天文の博物館で頭骨の複製とともに復元像がかつて展示されていました。が、今回私が取材で訪れた際には展示されておらず、写真もないということなので、記事への掲載は見送っています。以前に展示されていた頃の写真がweb上にいつくかありますので、興味のある方は検索してみてください。

斬首されたということは、何らかの事情で処刑されたことになりますが、なぜ首が堀の中に入れられたのか、謎です。外堀ではなく、城の中心部の堀の中ですから、平時に罪人の首を捨てるとは考えにくいでしょう。想像するに、敵に攻め込まれた落城のぎわ、敵に内通していたことが発覚した女性を、城方が怒りに任せて処刑し、首を堀に投げ入れた……などという場面を思い浮かべましたが、裏づけはありません。はたして葛西城で何があったのでしょうか?

消えた城

葛飾区あおかんじょう7号線、通称環七と国道6号が交差する交通の要所に、かつて葛西城がありました。今も環七の東に並行して中川が流れていますが、青戸は中川の大きなみなとだったといわれます。また国道6号は江戸時代、せんじゅ宿じゅく(現、足立区)からまつ宿じゅく(現、松戸市)を経て、城下(現、水戸市)を結ぶ「水戸街道」であり、中世はかまくらかいどうしもつみちと呼ばれるかんどうでした。つまり戦国時代の青戸は、南北に流れる中川のせん交通と、東西に走る鎌倉街道が交差する結節点であり、そこに築かれた城が葛西城であったのです。

環七と水戸街道、中川と葛西城の位置関係。葛西城址公園、御殿山公園はともに葛西城の主郭跡。国土地理院の航空写真をもとに作成

ところが低地の微高地に築かれた城は、戦国末期に廃城後、その存在は忘れられ、耕地化されて場所すら定かでなくなっていきました。そんな葛西城が再び世に現われるのは、廃城から380年余りのちの昭和47年(1972)、環七建設にともなう事前調査でのことです。葛西城があったことを示す大量の遺物が出土し、驚愕した学者たちはあわてて建設計画の変更を求めますが、却下。城の中心部を貫くかたちで環七が建設され、その他の大部分は住宅地の地下に眠ることになりました。

関東の戦乱を象徴する城

しかし近年、研究が進むにつれて、葛西城が戦国時代の関東で果たした役割の大きさが評価されています。

葛西城は、関東の戦国時代の始まりといわれる室町時代後期のきょうとくの乱」の際、かんとうかんれいやまのうちうえすぎ氏によって築かれたといわれます。享徳の乱とは、鎌倉から拠点を下総しもうさ(現、茨城県古河市)に移した古河ぼうあしかが氏と、本来、公方を補佐する立場の関東管領上杉氏が、関東の諸勢力を巻き込んで起こした戦乱でした。京都のむろまち幕府は関東管領を支持し、戦いは実に30年近くにも及びます。

この時、両勢力は川と、その下流で江戸湾に注ぐすみ川を境に、東を古河公方勢、西を関東管領上杉氏と同族のおやぎがやつ上杉勢が押さえてにらみあいますが、隅田川を越えた東、中川沿いに築かれた葛西城は、敵陣深くに食い込む、上杉方の最前線基地だったのです。

古河公方と関東管領上杉氏及び扇谷上杉氏の勢力図

そして享徳の乱終結後もなお、関東では混乱が続きますが、その機に乗じて小田原から進出してきたのが北条氏でした。北条氏は上杉氏が支配する武蔵むさしのくに(現、東京都・埼玉県)に侵攻し、次々と城を攻略。やがてそのほこさきは葛西城に向けられ……。この後、北条氏による古河公方の取り込み、えち(現、新潟県)のながかげとらの南下などで関東が揺れる中、葛西城の運命も変転しますが、詳しくは和樂webの記事「東京・葛飾区に巨大な城があった?上杉や北条が取り合った『葛西城』の物語をたどる」をお読みください。少々ボリュームがありますので、お時間のある時に、ごゆっくりどうぞ。


声なき声を

さて、記事はいかがでしたでしょうか。

葛西城をはじめ東京23区内では、開発によってかつての姿が失われてしまった城が大半です。しかし一つひとつの城には築かれる理由、築いた者のおもわく、そこで生き、戦った人々がいました。葛西城のように多くの記録が残る城は少ないのですが、今では忘れられてしまった城跡にも目を向け、かすかに聞こえてくる声なき声を書き留めていくような作業も、これから必要ではないだろうか、などと思っています。



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