見出し画像

壊れそうな世界の中で、音楽に救われて (2011)

*2021.5.20.加筆修正しました。
*このエッセイはページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」をご購入いただくと、30年間全て(全42話・¥8400相当)の連載記事を読むことが出来るのでおすすめです。
*2011年の出来事:アップルがMac用のアプリを提供するMac App Storeをオープン / 東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故が発生 / 九州新幹線鹿児島ルート全線開業 / 日本のテレビのアナログ放送が完全に廃止され、約60年の歴史に幕を閉じる / 元Apple CEOのスティーブ・ジョブズ死去 / 朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者金正日総書記が死去

-----

画像1

画像2

その日の午後、僕は鍼灸院で鍼治療を受けていた。ハリが終わって診療台に腰掛け、仕上げのマッサージを受けていると、ミシミシッと音がして部屋が大きく揺れ始めた。診療室は細長いマンションの最上階にあった。ただならぬ気配を感じてすぐに着替えた。じわじわと揺れは大きくなり、咄嗟に倒れそうになった棚を押さえた。こんなふうに反射神経で対処できたのは、小1から小4まで沼津で過ごした頃、東海沖地震に備えて何度もやってきた訓練のおかげだと思った。椅子の背もたれにかけてあった防災頭巾を被って、素早く机の下に潜る訓練。

スローモーションのように長かった何分かの揺れがやっと収まって、診療室から外に出てトイレに入ろうとすると、便器の水が床いっぱいに溢れ出していた。思わず紙で拭こうとしたが、床はびしょ濡れで難儀した。待合室では本棚が倒れたり、部屋の角に据えられていたキャスター付きのテレビ台が真ん中に移動していた。ビルの最上階・14階では揺れの振幅が長く、巨大なブランコに揺られた後のように、収まった後も揺れた感覚だけが残っていた。

窓の外に遠く見える湾岸エリアから、黒煙が上がっている。どこからか緊急車両のサイレンが響く。阪神・東淡路大震災の記憶が蘇る。2回ほどの大きな余震をやり過ごした後、再び大きな余震が襲ってくる前に、ハリの先生にぎごちなく挨拶して、非常階段を14階分降りた。少し膝が笑ったのは高所恐怖症のせいだけではなかっただろう。車に乗り込み山手通りを走って家に戻ると、両脇の歩道には呆然と立ち尽くす人々や、不安げな表情で同僚と話す人々が累々と並んでいた。ただならぬことが起きている不安と、錯綜する情報。東京の建物のほとんどはなんとか無事だったが、日常は非常時に変わった。その惨事がどれほどの凄まじさなのかは、まだ我々には理解できていなかった。



あの日を境に変わってしまったもの、失くしたものは数え切れない。

画像3


SNSやネットが日本で本格的に普及して以降、初めての大災害だった。善意も悪意もむき出しのままの言葉と、虚実入り交じった情報のカオス。

3月中旬以降に予定されていた作品の発売やライブ・イベントは、延期や中止を余儀なくされた。ミュージシャンたちは皆、音楽を生業にすることの意味を自問自答した。こんな時、何ができるのか? 音楽なんて、生きるためには何の役にも立たないじゃないか? と。

それぞれの行動や反応は様々だった。震災の翌日に鎮魂の新曲をネットにアップしたり、すぐさまチャリティーライブを開催したり、自ら被災地に赴いてボランティアを始めたアーティストも大勢いた。東北で孤立した親戚を助け出すために、行けるかどうかわからない目的地に車を走らせたミュージシャンも一人や二人ではない。

僕はといえば、本当に、情けないほど無力だった。続く余震に怯え、原発の無事を祈った。ずっと寝不足気味のまま神経をすり減らした。ショックは大きく、震災から1ヶ月ほどの間、歌うことができなかった。

震災の数日後、初めてアコギを手に取った。楽器を手に取るのはものすごく久しぶりに感じられた。小さく爪弾いた瞬間、夕暮れの部屋に明かりが灯るように、その場の空気が変わるのを感じた。音楽は凄いと思った。でも自分には、誰かを勇気づけられる気力はまだなかった。

ここから先は

5,608字 / 15画像
この記事のみ ¥ 200

この「サポート」は、いわゆる「投げ銭」です。 高野寛のnoteや音楽を気に入ってくれた方、よろしければ。 沢山のサポート、いつもありがとうございます。