身体感覚で_論語_を読み直す_

東洋思想入門 #2 身体感覚で『論語』を読みなおす。 (4/4)

東洋思想入門シリーズの第二回『身体感覚で『論語』を読みなおす。』の内容を振り返る最終回です。先週は、まず礼を扱い、そのために求められる「如」について見てきました。

礼を行うために大事なもう一つのヒントとして、感動力を安田さんは挙げています。衛霊公第十五・一六を見てみましょう。

何かをじっくりと考え、試行錯誤を繰り返してもうまくいかないことはあります。そうしたことの方が多いとも言えるでしょう。そうした時に、私たちの心もまた揺れ動き、一つの感動と言える状態になります。

このように、気持ちが揺れ動くという意味合いで感動にまで至っていない弟子に対して孔子は何かを与えることはできないとここで述べられています。もう少し詳細にみていきましょう。

何かを渇望するくらいにまで、自分自身を空にして吸収しようとすることがまず必要であると言われています。本書では、孔子の「孔」という言葉は「空」と同じ発音であることに着目し、自分自身を空虚にすることが大事であるとされています。

そうして空にすることで何かを心から学び取ろうとする気持ちが表れます。このように考えれば、憤するほどの強い感情が出ないときには、師は弟子に教えないという孔子の考え方も理解できるように感じますが、いかがでしょうか。

では、本書の締めくくりとして、「心」が珍しく表れている一節を見ていきましょう。

個人的には『論語』の中で最も好きな箇所なのです。特にこの部分は、新入社員研修の最後のメッセージでよく引用していました。内容をもっと踏み込んで見ていきましょう。

社会人はとにかく忙しいものです。何かを依頼されたらとにかくまずは動いてみて、動きながら何かを習得するという行動様式が求められます。こうした状況においては学習すること自体がおろそかになりがちであり、学び続けることが重要であることも間違いありません。

しかし、もう一歩踏み込んでみたいのです。つまり、何かをインプットするという意味での学びから、その内容についてじっくりと吟味してみたり、知識や情報の関連性についてああでもないこうでもないと思いを巡らせるということが学びと共に必要なのではないでしょうか。

ああでもないこうでもないという思考は、効率性とは矛盾するものとなりかねません。早く合理的に正解に辿り着くという様式とは異なるものだからです。しかし思考の合理性や瞬発性は、固定的な正解がありそこに辿り着くためには適していますが、変化が激しい現代においてむしろ機能不全をきたすことがあるのではないでしょうか。

このように考えると、一見して無駄に思えるもの、あるいは実際に結果的には無駄だったかもしれない多様な思考というプロセスが求められることもあるのではないかと考えます。これが為政第二・一五の「學而不思則罔、思而不學則殆」の本質と考えています。


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