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【読書メモ】一元論 vs. 多元論:『ウィリアム・ジェイムズのことば』(岸本智典編著)

『ウィリアム・ジェイムズのことば』の前回のまとめでは、プラグマティズムの説明をする上でジェイムズが多様な評価軸による多様な真理を認めるということに触れました。ここからも推察できることなのかもしれませんが、ジェイムズは多元論の立場に拠っていることが読み取れます。今回は、一元論に対する多元論について考えます。

一元論

ジェイムズが仮想敵として置いている一元論は、イギリス観念論と呼ばれる学派によって提示されているものです。本書ではT・H・グリーンとF・H・ブラッドリーといった哲学者をジェイムズが批判的に論じていることが示されていますが、私は両名ともに存じ上げないのでここでは深入りしません。(詳しい方、教えてください!)

一元論的な哲学では、こうしたすべての存在者を完全に支配し統合する存在(これは絶対者と呼ばれます)が登場します

p.39

さまざまな人がいるかもしれないけど、絶対者が一つの原理に基づいて正しく統治するよ、という世界観が一元論的な哲学の捉え方のようです。こうした一元論の捉え方は、ジェイムズの多様な真理を認めるという考え方とは相容れないことはわかりやすいでしょう。

多元論

ジェイムズの宇宙に絶対者は不要です。存在するものはどれもほかのものに依存しない独立性を持っているからです。とはいえ、それらはまったくばらばらで孤立しているわけでもありません。

p.39

多様な真理が併存する世界観を持つジェイムズは多元論を主張します。ジェイムズの著書の翻訳名にもなっていますが、多元的宇宙という概念で説明されています。

ジェイムズの多元的宇宙という捉え方は古くて新しいアプローチと考えられます。というのも、多文化社会DE&Iといった現代社会におけるテーマを説明できるものだからです。多様な宇宙が併存し、宇宙どうしは独立しながらもお互いに影響を与え合い、その境界もダイナミックに変動するという考え方は今を生きる私たちにもイメージできるものではないでしょうか。

多元論と遊び

この多元的宇宙を小学校の休み時間の遊びとして説明している箇所が秀逸で、たとえ話が上手い人に憧れます。

休み時間の遊びは時間という制約と学校内に閉じられているという空間的な制約はあるものの、緩やかなルールの中で何を行っても構いません。ドッヂボールをする人もいれば、サッカーをする生徒もいますし、鬼ごっこをしたり、教室内でゲームをする人や図書室で本を読む子どももいるでしょう。それぞれを「宇宙」と捉えれば、宇宙の中で独立し完結しているとも言えます。

ただ、その独立性は静的なものではありません。クラス内の数人でドッヂボールをしていても近くで同じ競技をしている他のクラスの友人と話してクラス対抗の試合になることもあるでしょう。また鬼ごっこをしていたけどつまらなくなって勝手に教室に戻って友人と昨日のアニメの話に興じることもありえます。

自己完結的でありながらもその状態が動的に柔軟に変化するということは、同じ小学校の生徒というインクルーシヴなアイデンティティも関連していると言えます。遠心力と求心力とを併せ持つダイナミックさが多元的宇宙と言えるのかもしれません。

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