身体感覚で_論語_を読み直す_

東洋思想入門 #2 身体感覚で『論語』を読みなおす。 (3/4)

『身体感覚で『論語』を読みなおす。』を扱う三週目。今回は、礼と恕という二つの概念を扱います。礼も恕も、ともすると堅いイメージがしますが、安田さんは、現代を生きる私たちが理解しやすいように読み解いて解説してくれます。

(1)礼

まずは礼から見ていきましょう。現代では「儀礼」という言葉に表れるように、格式張った堅苦しいイメージが礼という概念にはつきまといます。

私たちは小学校で、聖徳太子が推進したと言われる冠位十二階を習います。「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」ですね。この中にも礼は使われており、堅い感じを抱くのかもしれません。

『論語』では礼という言葉が一節の中で四ヶ所も登場する箇所があります。泰伯第八・二です。

一言で言えば、礼を失するとポジティヴな可能性を内包するものが反対にネガティヴになってしまうということが言われています。礼とは、それ自身を守ることが大事なものというよりも、それを大事にすることで人の持つ可能性を善なる行為へと誘うものなのでしょう。

では、ここで挙げられている四つの概念が、礼がないとどのようになってしまうのでしょうか。

(1ー1)恭

恭は、自信があって恭しい態度や行動を本来は表すものです。しかしながら礼がないと、慇懃無礼と他者から受け取られて尊大に見られてしまったり、他者に対して自信がない態度に見られてしまいます。

(1ー2)慎

慎重さは重要です。三番目に出てくる「勇」と併せて、慎重かつ大胆な決断が私たちには重要な時に求められます。しかし、礼がなくなると慎重さが度を過ぎてしまい、考え過ぎてビクビクと何もできなくなってしまうという危険性を孔子は指摘しています。

(1ー3)勇

勇は「変わらない心」を意味します。決断したものをブレずに断行するというイメージでしょうか。ところが、礼がなくなってしまうと自身の正義感を頑なに振りかざして世の中に混乱を招くことにもなりかねません。

(1ー4)直

直とは正直・素直さを意味します。しかしながら、礼を失って直で他者に接すると、「本当のことを言って何が悪い?」といって人を傷つける(縊る)ような馬鹿正直になってしまいます。

では次に、恕を見ていきましょう。

(2)恕

ここで再び思い出していただきたいのは、孔子が生きた時代には「心」という漢字がなかったという点です。「恕」から「心」を取ると「如」となります。

では「如」とはどのような意味合いなのでしょうか。

「如し」とは、「〇〇のように」という直喩を意味するものだと私たちの多くは理解しているでしょう。しかし、安田さんによれば、むしろ「〇〇と一体である」という意味合いになると言われます。

ではどのようにすれば一体となるまで至れるのでしょうか。短時間で、つまりはインスタントに相手のことを思うのではなく、長い時間をかける学びによって相手と一体となることを安田さんは提唱します。

第一回で扱いましたが、「まねび」としての「学び」を意味する學而第一・一の「學而時習之」を改めて大事にしたいものです。


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