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【読書メモ】ウルトラマラソンとランナーズブルー:『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹著)

『走ることについて語るときに僕の語ること』の第6章では村上春樹さんがサロマ湖のウルトラマラソンに出た時の心象風景を中心に描かれています。内省的なモノローグがきれいな筆致で書かれていて、著者の作品が好きな方にはオススメの一章です。他方で、キザっぽいと感じるアンチな方にはオススメできないのかもしれませんが。

フルマラソンとウルトラマラソンの違い

著者はフルマラソンを毎年走り続け、四十代を迎えてから初めてウルトラマラソンに挑戦しています。そのため、ウルトラマラソンを走っているとき、あるいは走り終えた後に振り返った内容は、フルマラソンのそれとの対比で描かれることになるのは自然です。たとえば以下の箇所にはその相違が端的に説明されています。

フル・マラソンを走っていると最後のころには、一刻も早くゴールインして、とにかくこのレースを走り終えてしまいたいという気持ちで頭がいっぱいになる。ほかのことは何も考えられなくなる。でもそのときには、そんなことはちらりとも思わなかった。終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。

p.127

フルを走る時の最終盤の思いは、これまで何度もnoteで書いてきた通りなので著者に対して共感以外のなにものでもありません。ということは、フルマラソンとウルトラマラソンとの認識的な意味での相違は、著者が書かれているようなものになるのかもしれません。

区切りをつけることで終わりが生まれ、終わりを意識することで意味が生じる、というくだりは哲学的にも受け取れますが実際的でもあります。大晦日に見た景色と正月に眺めた景色とにはそれほど大きな差異はなかったはずですが、私たちはそこに2023年と2024年の違いという意味性を見出しがちです。42.195kmという区切りを意識することに慣れていると、その倍以上の距離を走る際には区切りを意識せずに身体との相互作用が生じやすいのかもしれません。

ランナーズブルー

ここまで著者のウルトラマラソンの記述に共感的に書いてきたので誤解を受けかねませんが、私は当面はウルトラマラソンを走るつもりはありません!著者は、サロマ湖を走った後にランナーズブルーに陥ったと書かれています。練習の本数が徐々に減り、距離も短くなっていき、年一のフルマラソンへの参加は継続したものの記録は落ちていったそうです。

私にとって気ままに走ることは日常の一部であり、少しずつでも自己記録を縮められるというわずかな達成感は代え難い経験です。まだ自然と走ることに動機づけられていますし、ウルトラマラソンに挑戦する気が現時点ではないことを、念のために明言しておきます。

書くことと考えること

1996年のサロマ湖のウルトラマラソンを走った後からのランナーズブルーを乗り越えたのは、この本の他の章の記述時期から判断すると2005年頃であったようです。ただ、どのような気持ちの変化で再び走ることに魅力を感じ始めたのかはわからないとしています。

職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。

p.135

2005年、走ることに再び動機づけられ、ニューヨークシティマラソンに向かって走り続ける過程で走ることの理由を綴ることで、著者は自身に向き合おうとしています。小説よりも制約が断然多い論文という形式であっても、基本的には同じ構造なのではないかと個人的には思います。

実証研究であれば提示したい主張はデータからある程度は言えます。ただ、その主張をなぜ世に問いたいのかという根源的な理由については、少なくとも私自身は書いてみるまでは朧げながらしか持っていません。共著者の先生方との問答を繰り返して書いては更新し、また査読者の先生方からのフィードバックを踏まえて書き直すというプロセスを経て、私の場合は解像度が上がっていくイメージです。考えるという閉じた行為と、書くという開かれた行為とは、相互作用しながら進んでいくものなのかもしれません。


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