身体感覚で_論語_を読み直す_

東洋思想入門 #2 身体感覚で『論語』を読みなおす。 (1/4)

東洋思想入門シリーズ。その第二回では安田登さんの『身体感覚で『論語』を読みなおす。』を扱いました。こちらも第一回と同様に対話が盛り上がり、みなさんからのフィードバックをいただくことで私自身が学びを深めることができました。この場を借りて御礼申し上げます、どうもありがとうございました!セッションの内容を振り返りながらポイントを共有します。

全四回にわたって振り返っていきます。初回である今回は、論語のエッセンスを凝縮しているという意味で「小論語」とも呼ばれる学而編の最初の一説の冒頭である「學而時習之」を扱います。

この一節、高校の漢文の授業で目にされた方も多いのではないでしょうか。かくいう私も目にした記憶はあるのですが、内容は全く記憶にございません。もちろんしっかりと勉強されておられる先生もいらっしゃるのでしょうが、私が学んだ先生は『論語』を理解していなかったのでしょう。こうした経験が、私たちの多くを『論語』嫌いにしている一因となっているのだとしたら、もったいないことだと思います。

この「學而時習之」は全て身体を表す文字が含まれていることに安田さんは着目して説明をされています。一文字目の「學」から見ていきましょう。

「學」の上の左右の文字は、両手を表します。下にあるのは「子」です。つまり、師匠が手取り足取り子弟に何かを教える姿を表す漢字です。

学ぶという行為は、『論語』においては机に向かって先生が教えてくれることをただただ受け身的に暗記するというイメージではありません。むしろ、師や先輩から身体を用いて、時に厳しいフィードバックを受けながら学んでいく修行のようなイメージを持った方が当時のイメージに近いのでしょう。

そうして師匠や先輩と同じ動きができるよう真似ていく。「学ぶ」は「真似ぶ」であると仏教で言われる通り、身体が同じ動きをできるように勤める様が「学ぶ」という意味合いのようです。

二文字目は「而」です。漢文では置き字として習い、特に発音をすることもなく、意味もないと習うのではないでしょうか。しかし、安田さんは伊藤仁斎の述べた「論語には無駄な文字が一字もない」という言葉を引きながら「而」に積極的な意味合いを見出します。

「而」とは、雨乞いをする呪術師を表した文字です。この字の上に雨を付ければ「需」となり雨を求める呪術師を想起できるでしょう。

日照りの時に雨が降るのには時間が掛かります。呪術師も雨が降らないと他の人々から何をされるかわかりませんから必死です。しかしひたすら時間がかかる。このような永遠とも思われるような呪術的な時間が「而」の意味として説明されます。

三文字目は「時」です。右側の「寺」を見てみましょう。上の部分は足跡がどこかに一箇所にくっついていることを表す字で、いまの字に直すと「止」で、下の「寸」は手を表します。「止」と「手」が組み合わさって「何かをしっかりとつかむ」という意味合いになります。

この意味合いは、四書五経の一つに数えられる『易経』での「時中」を考えればわかりやすいでしょう。時中、すなわち「時に中る」とは、ちょうどいいタイミングを掴み取る、という意味合いで『易経』の中で大事にされている考え方であり、個人的にもとても好きな考え方です。

これまでの二文字と合わせて考えてみれば、何かを学び取るには五感をフルに活用して真似ぶことが必要であり、そのためには永遠とも思える長い時間が掛かります。そうして嫌になるほど時間が経ってから会得する瞬間が訪れるわけで、それをパッと掴み取ることで学びが定着する、ということですね。

「習」という文字の構成はわかりやすいでしょう。上は「羽」で下は「白」です。「白」は左に手偏を付ければ「拍」となります。パタパタという擬音を表すと考えればイメージできるのではないでしょうか。

永遠とも言われる長い時間、手取り足取り厳しく真似ぶことは辛いかもしれません。しかしそうした長い時間の末に時期を掴み取り奥義を会得する。そうすることで羽ばたくかのような喜びが生じるということをイメージすれば学ぶということを感じ取ることができそうです。

こうした辛さと喜びの両面が含意されるところから、辛さや長さのないインスタントな学びは敬遠した方が良いのではないかと安田さんは主張されます。中身の浅い「分かりやすい本」が流行る現代において、重たい響きをもつ言葉だと個人的には感じますが、いかがでしょうか。


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