見出し画像

俺の東京オリンピック


「いだてん」総集編を観た。

放送当時大きくのめり込み、それ以来1年半以上ぶりの視聴に感極まり、

同時に感じた得も言われぬ愁いを、そのまま殴り書きたくなってPCを開く。

※クライマックス等内容にがっつり触れるので、未視聴の方はご注意ください



知らない方のために簡単にこの作品を説明すると、

「いだてん」は2019年に宮藤官九郎脚本でNHKにて制作された大河ドラマである。

日本人初のオリンピック選手である金栗四三と、
1964年東京オリンピック開催の中心人物であった田畑政治の足跡を軸に
日本初のオリンピック開催までの軌跡を描いた作品だ。

言わずもがなこの作品が放送されていた2019年は東京オリンピックの開催を間近に控えており、2020年春期朝ドラ「エール」と共にスポーツ、そして平和の祭典への機運を高めるものであった。



ただ、当時から東京オリンピックを取り巻く状況は必ずしも世間から歓迎されたものではなかった。

会場の選定、ロゴの盗用疑惑、酷暑への対策、ボランティアが被る笠等々、
ネガティヴな要素は事を欠かず、極めつけは新型コロナウイルスの流行だ。

大会は1年延期が決まり、というか本当にやるの?という疑問を誰しもが抱えたまま、知らぬ間に出来上がっていた4連休の2日目である「スポーツの日」(そもそも体育の日から名前が変わってたことすら知らなったのは私だけでしょうか)、7月23日に開会式が開かれる運びとなった。

その前日に「いだてん」の総集編を流すとは、NHKも粋な計らいをしてくれる。

ぶっ壊されなくてよかったと思わず安堵した。



このドラマの放送前、正直なところ私はオリンピックにさほど関心がなかった。

なにせ運動神経が悪く、小中高とスポーツ大会にロクな思いではない。

遊び程度で友達と体を動かすのは好きだし、あとプロ野球は好きだが、それ以外で何か観戦したこともほとんどない。

そんな私がオリンピックを心待ちにするほど、このドラマの持つ熱量はすさまじく、

また先人たちが魅せられらたスポーツの持つ力、平和の祭典への狂気的な希求に、私は夢中になった。


だからこそ、最終回にて描かれた1964年オリンピック開会式の姿には
どうしようもなく胸が震えた。

こんな素晴らしい体験を、生きているうちにすることができるのだと。

横浜ベイスターズが優勝し、ミッシェルガンエレファントが解散ライブを行い、QUEENがライブエイドで歴史的なパフォーマンスを行ったのもすべて過去だった。

素晴らしい先人たちの足跡を知れば知るほど、「あと何年早く生まれていれば」と、ありもしない過去を悔やんだ。

だが、今を生きる私には、こんなに素晴らしい「東京オリンピック」という経験が待っている、自分の生まれたこの国で。

そう思うだけで生まれた喜びを実感できるような、そんな2019年の暮れだった。



それから1年半近く経った今日、2021年7月22日。

久し振りに観た「いだてん」は、やはり素晴らしかった。

金栗四三が黎明の鐘を鳴らし、嘉納治五郎の背負い投げで箔がついた田畑政治は、ベルリンではなくロサンゼルスからを経由して東京オリンピックを実現させた。

「男が目隠しすればいい!」
「いだてんが何の神様か知ってるか!」
「日本を明るくするためだ」

好きなシーン、セリフを挙げ始めたら50年以上かかって結婚して子どもも孫も生まれてしまいそうなので割愛するが、

情緒が韋駄天のように自分の中を駆け巡る、そんな作品だ。



そしていよいよクライマックス、

「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、
素晴らしい秋日和でございます。」

練習が上手くいかず、というかどうせ開会式当日は雨予報だから!と前日に酒盛りをして二日酔いになってしまったブルーインパルスが描く見事な五輪の雲とともに、

晴れやかな人々の表情と、際なんて感じさせない澄み切った青空が、実況の名調子とともに映し出される。

言うまでもないが、素晴らしいシーンだ。感動が溢れる。


だが、そうした込み上げてくる熱い感情に、素直に心を預けられない自分がいる。

まるで今観ている映像が、寝覚めの良い夢であるかのように、

史実や起こりうる未来ではなく、叶わぬ幻想をあえて見せつけられているかのような、そんな苦しい感情が、徐々に体に満ちていくのを感じた。



「オリンピック」という言葉を聞いて、空にかかる五輪の雲を見上げて、高らかに流れるファンファーレを浴びて、

この映像の中で溢れるような晴れやかな表情を、心躍る熱狂を、

我々は見出すことができるのだろうか。

感じることができるのだろか。


多くの人にとって、それは難しいのではないかと思う。

理由なんて挙げればそれこそキリがない。


「こんな時代だからこそ」という言葉もあるだろう。

だがそうした”だからこそ”すら詭弁に思えてくる情報が溢れる。


作中、関東大震災の被害がまだなお深く残る中で運動会を開くという案に対して「こんな時に」と反対する声があった。

しかし嘉納治五郎は「こんな時だからこそ、スポーツの力を」といった。

あくまでその”だからこそ”には、悲しみに暮れる市井の人々と明日への希望が見据えられていた。


今発せられる”だからこそ”の先には何があるだろう。

そのすべてを知ることは私を含め多くの人々にとって難しいことだと思うのでわかったようなことは言えないが、

少なくともこれだけ否定感情が高まった中でやる行事が「平和の祭典」として人々の記憶に残り、

無理やりスポンサーの商品を買わせて酷暑の競技場に連れてこられた子どもたちが、「あの時はみんなで盛り上がってなあ」と1964年を振り返る我々の祖父母世代のような輝く瞳を見せてくれることは無いだろう。



しかしこうした雰囲気が生まれる責任は、送り手のすっとこどっこい具合だけでなく、受け手である我々にもあるのではないかと思う。

具体的に何かと言われると、私の力不足で言語化することはできないが。

劇中で嘉納治五郎が言った「面白いこと」、それをただ受け取るのみでは、「こと」はただ通り過ぎていく。

「面白いこと」を楽しむには、参加しなければならない。楽しむことも参加することも能動的な行為であるから、そこには我々の前向きな意志と行動が不可欠だ。

じゃあ実際何ができるの?と聞かれて出た答えが「傷のある関係者を辞めさせる」であれば、その是非はまた別の機会に論じたいものだ。


私がこのドラマで印象に残っている言葉の1つ、田畑政治がその任を解かれる際に抵抗しながら言った

「俺の、俺たちのオリンピックだ!」

という言葉は、先の話に通ずることがあると思う。


一聴すると、それこそ一部の人たちの意見のみで構成された批判されるべき在り方のように受け取られるかもしれないが(実際そういう側面もあると思う)、

田畑政治の見据えるオリンピックの先には、嘉納治五郎が初めに抱き、自身がロサンゼルスで感じた「la paix」、つまり「平和」への強い希求があった。

そこには人種も政治も関係ない、全ての人々が共通のルールの上で競い合い、競技が終わったらごちゃ混ぜになって称え合う、それが彼にとってのオリンピックであり、スポーツを通じた平和であったのだと思う。


その点、政治家である川島が言った「貴様のオリンピックではない!」という言葉の方がむしろ筋が通っているようにも聞こえるが、

その言葉には「政治家」という立場や「国民」というターゲットなど、様々な肩書によって意味が見いだされる、限定的なものであった。

もしかしたら田畑政治が発した「俺」という言葉には、政治家、委員会、国民、外国人、スポーツマン、ともすれば「事務総長」という自らの肩書さえも超えたところにある、

全ての人々が肩書や属性を脱ぎ捨て、「俺のオリンピックだ!」といえるような平和の祭典、そこに向けた強い意志が表れていたのではないだろうか。



あと4時間で7月23日がやってくる。

無観客で開催されるオリンピックだ。

きっと選手はひたすらに頑張るだろう、それぞれの見据える目標のために。

プレッシャーからお守りを飲み込まれても申し訳ないので「頑張れ」なんて言葉には出さないが、せめて選手の皆さんに悔いが残らないよう、画面を通して精一杯応援したい。



そしていつか、すべての人々が「俺のオリンピックだ!」と思えるような平和の祭典を東京で開きたい。

なので今から、何か自分にできることを探そうと思う。

まあこれは極論なのだが。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?