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食への価値観

今回は、引用リツイートさせて頂いたものがかなり反応があり、それに伴って自分の中で色々思い出したり考えたことがあるのでまとめていきたいと思います。ここからは、完全に私の経験談と意見なのでご了承ください。

先日、私が幡野さんのツイートを引用させて頂いたものです。

祖母が教えてくれた食の考え方

私の祖母は、幼い私に色んな事を教えてくれた人生の師匠です。その祖母が私に言い聞かせてきた「頂きます」と「ご馳走さま」の意味を紹介させて頂きます。

犠牲になってしまった命に対して

まずは、食卓に並んでいる食べ物に対して感謝と謝罪の意味。目の前に広がる食事は私達が生きる為に犠牲になってしまった命達、けれどこれを食べる事によって私達は明日の生きる力をつける事ができる。「これは、もの凄く有難いことなんだよ」と祖母は言っていました。その意味を込めて「頂きます」と「ご馳走さま」を言いなさいと教えられました。

食卓まで運んできてくれた人たちに感謝

目の前に広がる食事は、決して私達の力で届いたわけではない。農家の人が野菜を作り畜産家の人が動物を育てて、スーパーや商店街で働いている人たちが商品を売り私達の元に届く。他にも食べ物に関わる仕事をしている人は、沢山いる。その人たちがいなければ私達は肉も野菜も食べる事は出来ない。そして料理を作った人(家族)に感謝をしなさい。

というものです。なので食事の挨拶を言わされてると感じた事はありません。むしろ言わないともの凄く失礼にあたる事だと言われなくても分かっていました。


初めて生き物の命を奪ったと実感した瞬間

私が中学生の頃、家族とプチ旅行に行った際に魚の掴み取り体験をしました。施設のおじさんが放してくれる魚を掴んでとって後で食べるというよくあるプログラムです。もの凄く生きの良い魚で中々捕まえる事が出来ず苦戦した末に捕まえる事が出来ましたが、突然「この手の中にいる魚を今から食べるの?」と急に自分でしたことに恐怖を感じました。この後はもちろん頂きましたが「これが命を奪う」ということかと初めて実感しました。食べながらこれが「いただく」ということかと身に染みるように感じていて命を頂く残酷さとそれと同じくらいに魚が美味しいことを考えていました。当時は理解できなかった事が上記のツイートをした時にふと思い出して言葉にすることができました。

これらを持って、私は「食べ物は命を犠牲にしないと得られるものではない」と考えています。肉にしても野菜にしてもです。命無くして命をつなぐことはできません。

私は、動物を食べずに植物のみ食べるという菜食主義の思想が生まれたのも今の時代「食べ物」に対する不安要素が劇的に少なくなった、とても裕福で平和な世の中の象徴のように思えてきました。少し極論になりますが、世界の戦争地域や貧困に苦しむ地域の人たちに菜食主義を掲げる人たちっているのでしょうか?ただでさえ少ない食料に文句をつけたり排除する動きはしないのではないでしょうか?

もちろん宗教的にこの動物の肉は食べてはいけないという場合は除きます。もしそういう事例があるのであれば、ぜひ教えてください。私も全てを知っているわけではありませんし大学に行っていないので学はありません。私の学校はインターネットなので是非教えてください。

今、私の見える範囲で菜食主義の方と肉食主義の方とのやりとりが、とても話題になっているように見えます。このやりとりを見て思ったことを言わせてください。

「食への価値観なんて決められるものではありません。あなたの育った環境、経験してきた人生、宗教的な背景。これら全てを持ち合わせても決められることではありません。それなのに子供がワガママをいうかのごとく、自分の主張を押し通そうとするのは最早「誹謗中傷」の域に入ってもおかしくないように思います。その考えはあなたのもので唯一無二です。大事なことは主張を通すことではなく理解し合うことではないですか?」


最後に

今回、この記事をきっかけとなった幡野さんには本当に感謝しています。おかげで祖母に教わったことや自分の昔の記憶が戻ってきたりと色々いいことがありました、本当にありがとうございます。そして、ここまで読んでくださった方にも感謝の言葉しかありません。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。




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