高瀬正仁

数学者・数学史家。

高瀬正仁

数学者・数学史家。

マガジン

  • 父を思う

    父の回想記。遺された日記から拾いました。

  • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

    ●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事実を諒解する必要があります。中先生に関心を寄せる愛読者のみなさまの集う広場を開きたいと念願しています。

最近の記事

『評伝中勘助』覚書補遺

●漱石書簡。小宮豊隆へ 明治41年5月6日 牛込区早稲田南町七番地より本郷区森川町一番地小吉館へ 《あの女はほかに行く処がきまつてゐる由御失望御察し申候へども一方にては大いに賀すべき事に候学校を卒業もしないうちからさう万事が思ひ通りに運んでは勿体な過ぎますさうして人間が一生グウタラになります。勝者は必ず敗者に了るも[の]に御座候。ことに金や威力の勝者は必ず心的の敗者に了るが進化の原則と思ひ候。先は右御祝辞迄 草々頓首》 ●「思ひ出すことども」より 《先生の英国留学中の噂は丁

    • 『評伝中勘助』覚書(42) 日露戦争 

      ・「七十年」より 三国干渉に際して。 《私たちまでが「いつかは戦はねば」と思ひ、それがいつしか「十年後には」になつた。》 ・「日露戦争」より 《それは日清戦争直後の三国干渉、引続く各国の利権獲得、特にロシアの旅順、大連、ドイツの膠州湾租借に口火がある。私らはその当時の言葉でいへば「切歯扼腕」した。ロシアと戦つて勝たなければ と思つた。十年後日露戦争が起つた。一高二年生の時だつた。宣戦の詔勅の最初の句がジーンと頭へきた。かねて覚悟し期待してたことながら盤石の落ちかかる気持ちだ

      • 『評伝中勘助』覚書(41) 愛読者たち

        ・今村小百合さん 「小百合」さんの思ひ出」 ・黒川節子さん 旧姓:西川 「天の橋立」 明治女学校。姉のはつ子さんと同期。明治26年、17歳くらい。女学校に入ったばかり。明治27,8年の日清戦争のころ、中勘助は10歳。 《嗚呼懐かしの小日向台。六十有余年昔の今もなほ時々夢にさえ忘れ得ぬあの水道町のおやしき。築山nほとり、青桐のすがすがしかつた木蔭。お二階の兄君のお書斎。下のお姉様方のお部屋。一つとしてなつかしからぬ処はなく、姉上様のお琴に合せて兄上様の月琴のしらべ。》 ある年

        • 評伝中勘助』覚書(40) 漱石先生(続)

          明治35年12月5日、ロンドンを出発して帰朝の途についた。 明治43年6月6日、長與胃腸病院で診察を受けた。7月31日、退院。退院後、医者のすすめにより修善寺に転地。修善寺でも胃痛に苦しみ、大吐血。二箇月ほど病床に釘付けになった。徐々に回復し、担架で汽車に運ばれて新橋に着き、担架で胃腸病院に担ぎ込まれてそこで越年した。修善寺に向けて出発したのは明治43年8月6日。この日、11時の汽車で修善寺に向った。菊屋別館。 8月17日、吐血。 8月19日、吐血。 9月4日、午後、阿部次郎

        『評伝中勘助』覚書補遺

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        • 父を思う
          54本
          ¥100
        • 『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業
          190本
          ¥300

        記事

          評伝中勘助』覚書(39) 岩波茂雄と岩波書店

          ・岩波茂雄 明治38年9月、東京帝国大学文科大学選科入学。 明治40年3月25日、神田佐久間町の井上善次郎(岩波の母の兄。薪炭商)宅で赤石よしと結婚。房州岩井の橋場屋に新婚旅行。 明治40年10月、本郷弥生町の大学裏門の向うあたりの二階の六畳と四畳の間借り。 明治41年2月、木山の近くの貸家に移転。 明治41年4月、大久保百人町の新築の家に移転。六畳二間に三畳、二疊。 同年6月、徴兵検査。丙種合格。 同年5月24日から藤原正夫婦も同居した。阿部次郎、石原謙、上野直昭、山田又吉

          評伝中勘助』覚書(39) 岩波茂雄と岩波書店

          評伝中勘助』参考文献

          『中勘助全集』(角川書店) 『中勘助全集』(岩波書店)全十七巻 中勘助、安倍能成(編)『山田又吉遺稿』(大正五年三月二十九日、岩波書店) 中勘助「漱石先生と私」(『三田文学』。大正六年十一月、第八巻、十一月号。仮綴本『銀の匙』に収録されたとき、「夏目先生と私」と改題された。) 中勘助「先生の手紙と「銀の匙」の前後」(『中央公論』。昭和二十七年一月号) 中勘助「孟宗の蔭」(『思想』、第十四号、大正十一年十一月。第十五号、大正十一年十二月。第百二十六号、昭和七年十一月。第百二十九

          評伝中勘助』参考文献

          『評伝中勘助』覚書(38) 『思潮』から『思想』へ

          ・大正6年5月1日、『思潮』創刊。主幹、阿部次郎。同人、石原謙、和辻哲郎、小宮豊隆、安倍能成。大正8年1月、『思潮』終刊。 ・大正10年、岩波茂雄が『思想』発刊を思い立ち、10月1日、創刊号が刊行された。

          『評伝中勘助』覚書(38) 『思潮』から『思想』へ

          『評伝中勘助』覚書(37) 江木ませ子さん

          ・中勘助「呪縛」より 《五十年にもなる。一高のとき私は新入生の一人と友達になつて、毎週一二回は訪問しあふといふほど近しくした。楽しい期待に胸をふくらませていつて案内を乞ふと予て噂にきいた親戚の令嬢といふ美しい人が小走りに出てきて取次いでくれる。はたち前後か、背の高い、強くひいた眉の下に深くぱつちりとした瞳、錦絵からぬけでた昔風のそれではなく、輪郭の鮮明な彫刻的な美人だつた。しづかにあいた襖から小腰を屈めて現れる姿、膝のまへにしとやかに両手をつく。さてその取次ぎぶりだが、まるで

          『評伝中勘助』覚書(37) 江木ませ子さん

          『評伝中勘助』覚書(36) 漱石先生

          ・安倍能成『我が生ひ立ち』より 《これは大学一年を終へた夏休だつたと思ふが、勧め上手の高浜さんはその後小宮、野上など漱石門の人々も、漱石先生自身をも下掛宝生(しもがかりほうしょう)に入れ、宝生先生が漱石山房へ出稽古にいつたこともあつた。  野上豊一郎が漱石先生のところへ謡にゆかうといふので、始めて漱石山房を訪ふたのが、高等学校の一年の教場以来の初対面であつた。先生が三十八年以来「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を発表して、文名一時に挙つて以来、駒込の家から西片町十番地、それか

          『評伝中勘助』覚書(36) 漱石先生

          『評伝中勘助』覚書(35) 中学時代

          ・『鶴の話』所収「随筆」より 《私が中学へ通ふじぶんには大親方の家がちやうど道筋にあつたので時どき使ひの役をいひつかつた。川つぷちの草地を前にした閑静なところに植木屋と臼屋と米屋が並んで、その米屋のシャモが五六羽植木屋のけんねん寺垣にそうた溝の水をのんでることがあつた。渋く凝つた羽色のシャモが天を仰ぐやうに頸をのばし、ちよびちよびと嘴を動かして水をのみこんでるのが戦勝を祈つてでもゐるやうにみえてをかしかつた。門をはひると飛び石、燈籠、手水鉢といふ型のごとき庭で、松、どうだん、

          『評伝中勘助』覚書(35) 中学時代

          『評伝中勘助』覚書(34) 野村家別荘「黄夢庵」

          ・『鶴の話』所収「網ひき」より 小田原、野村家別荘 《私は病後の静養その他の事情のため入営前の夏の幾月を小田原にある親戚の別荘でくらした。そこには姉の母と妹の初子さんが子供をつれていつてゐた。》 《別荘は談話室でもあり遊戯室でもある茶の間をふくむ母屋と、廊下つづきで小高いところに建てられた高間といふ一棟と、新座敷といふはうとにわかれてゐた。茶の間の北側には櫺子格子がはまつて、そのまへになぎの木があり、床にはよくすばらしい山百合がいけてあつた。高間からは海が見晴らせて、襖にはこ

          『評伝中勘助』覚書(34) 野村家別荘「黄夢庵」

          『評伝中勘助』覚書(33) ケーベル先生

          ・阿部次郎『秋窓記』所収「ケーベル先生の言葉」より 《ケーベル先生の追憶を書いて、魚住影雄君の名を逸することは六かしい。魚住君は凡そその愛する者に粘り着かずにはゐられぬ、思ひつめた、一本気な、小さい可愛い魂を持つてゐた。彼はこの正確によつて特別に人に愛されたり嫌はれたりしてゐた。彼のケーベル先生に対する敬慕は「恋」といふ言葉を用ゐても大して誇張ではないであらう。さうしてこの恋の橋渡しをしたのは私である。それは私の卒業論文の口頭試問がすんだ直後だつた。ケーベル先生の質問は割合に

          『評伝中勘助』覚書(33) ケーベル先生

          『評伝中勘助』覚書(32) 藤村操

          ・阿部次郎『秋窓記』所収「交游二十年」より 《一高時代の私にとつて最も鮮かな記憶はただ齋藤君の舌である。一度逢ふ毎にきまつて私の胸中に刻み込んでゐる。特にその時の情景と共に浮んで来るのは、藤村操君の自殺した当時、私の部屋の窓際で出した同君の舌である。その時私は窓際から外を覘きながら窓の前に立つてゐる齋藤君や藤原君と藤村君のことを話してゐた。我々の感じ易い心には藤村君の死に対する深い悲しみが流れてゐた。さういふ話をしながら齋藤君は何かの拍子にペロリと赤い舌を出した。その舌に五月

          『評伝中勘助』覚書(32) 藤村操

          『評伝中勘助』覚書(31) 創作の経緯

          ・『犬』 書簡より 中勘助から和辻哲郎へ 大正10年11月21日 我孫子から東京市外千駄ヶ谷七七五へ 《御手紙拝見。どうもあなたのやうな口説き上手にあつてはかなひませぬね。犬はやつと合版の西洋紙二十七頁迄漕ぎつけました。丁度犬になつたところです。もう先は見えてゐるのですが実はこれからが一番六ヶしい不得意なところなので閉口してゐるのです。かりにもう四五日で出来上るとしてもそれから二回手を入れなければならずその間に銀の匙の正誤表を作るといふ厄介な仕事もあるのでとても正月号に間に合

          『評伝中勘助』覚書(31) 創作の経緯

          『評伝中勘助』覚書(30) 学生時代

          ・「瑠璃鳥の死」より 《高等学校の頃私はよく教室へは出ず、朝から上野の動物園へいって気を晴らした。学校や学業が嫌というよりは、そのほかの世界により好ましいものがあった。》 ・「斎藤茂吉氏の思ひ出」より 《一高一年の時といへばやがて五十年にもなる。皆寄宿制度といつてすくなくとも新入の一年間は入寮しなければならないことになつてゐた。私のゐたのは南寮六番といふ部屋で、五寮の健児なぞといふ言葉が寮歌にあるのでもわかるとほり、五棟並んでるーこれは後に六つになった。—寮のなかでいちばん

          『評伝中勘助』覚書(30) 学生時代

          『評伝中勘助』覚書(29)『はしばみの詩』より

          長野県下高井郡山ノ内町横倉 中島森之助医師の妹 昭和6年の秋、病気のため帰郷。 《野尻池田様(仙台の萬作様)とは私共親戚同様のおつきあい頂いて居りましたのです。 当時先生の御兄様の金一様夫妻が池田萬作様へ秘書に来てお出での時に、私も池田様へまいり其際お目にかかっておしり致したので御座います。 其時に、奥様が弟が平塚へ家を建てたが、一人ですので普通のお手伝へではいけないから、ぜひ私の様な人に手伝ってほしいとの事を池田様の方へ申込まれたので、池田様よりぜひにとの事で承知致し、其

          『評伝中勘助』覚書(29)『はしばみの詩』より