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モンターニュのつぶやき「初心忘ルベカラズとはどんなこと?」 [令和3年4月24日]

[執筆日 : 令和3年4月24日]

 昨日は、本当に素晴らしい天気で、モンターニュは、山に芝刈りならぬ、ゴルフの芝刈りで千葉に出かけておりまして、失礼いたしました。素晴らしい天気と素晴らしいゴルフ友とのしばしの再会であったせいか、私のスコアの方は、笑ってしまう、そんなゴルフではありましたが。
 さて、都内では、臨戦態勢に入るかのような雰囲気は全く伝わってこない訳ですが、明日から3度目の緊急事態宣言が出るとか。緊急事態ってそんなに何度もあるものなのか、あたかも第2次世界大戦で、空襲警報が発令されているような、ある意味で慣れっこになった中での緊急事態宣言。でも、今度は集中的で短期型のもののようですが、禁酒法的なものが施行されるようでもあり(お酒を嗜まない政治家には、庶民の楽しみなんぞ分からないのか、どうも庶民感覚の欠如が気になりますねえ)、なんだか、かつての贅沢は敵だ、ではありませんが、コロナ禍は都市を直撃した自然の文明への反逆的攻撃ですが、都会は自然の力には脆弱だったことを改めて思い知らされます。
 で、モンターニュは思うのです。日本は第2次世界大戦は負けるべきして負けた戦争であったと。そして、そういう戦争の原因を作った当時の日本に蔓延していた精神が、今70年以上経った令和の時代のコロナ禍でも、見られているのではないかと。戦争で一番罪深いのは極東裁判で有罪となった犯罪人かもしれませんが、蔓延していた精神の一つが無責任体質で、それは、皆貴方(お上)にお任せしますという精神で、日本人の体質のようなものだと思うのですね。ですから、これまでの戦争の責任は国民全員にあるとも言えます(民主主義が成熟していなかったとも言えますが)。コロナ禍は戦争とは違うでしょうが、この無責任的な精神が垣間見れるように思う一方で、政治的には戦争を短期間に終わらせるためにも、合理的で、科学的な政策を早めに、集中的に打ち出さないといけなかったと思うのですが、コロナ禍発生以来、政府の方向は「戦争(コロナ禍)を継続させるために経済を動かす」というような奇妙な動きに見えるのですね。
 物言えば唇寒し秋の風ではなく、もうすぐ夏の風でありますが。それと、もう一つ、法律がないと、人の自由を制限できないとか言っていながら、法律を作ろうとはしていない政府ですが、日本人は、「理屈ぽい」国民で、この「理屈ぽさ」は時代とともに、益々激しくなっていて、何か肝心なものを忘れている、そんな気もします。

 つぶやきの話題は変わって、谷沢永一「百言百語」のことを。この本には、日本の先人たちの名句が収録されているのですが、今日は、世阿弥の「初心忘れるべからず」について、つぶやきを。実は、昨日のゴルフ、日頃の練習の成果が出た部分と、出なかった部分があって(こちらが多いけれども)、とても為になるラウンドだったのです。なお、今回はスコアカードに毎回スコアをつけないで、自分との対話も含めて、気の合った仲間との会話とゴルフを楽しんだのですが、珍しく、18ホール、総てのショットとパットを終了後も覚えていたのです。私の経験では、自分の総てのショットとパットを記憶していたときは調子がよく、ベストスコアが出た時(アルジェの77、パリのアップルモンの81、そしてオタワの79)もそうでした。無になることが何事においても重要であるとは思いますが、無というのはどこか冷静な自分というか、もう一人の自分と一緒にプレーできる状態なのかもしれませんね。
 確かに、プレー前は、ベストスコアが出そうな気がしていましたが、実際はそうではなかったのですが、それから良い経験もしました。それは、得意な事こそ、細心の注意を払わないといけないことを改めて知ったことでした。その一つは、後半も終わり近いショートホールで、それまで上手く使いこなしていたユーティリテで失敗したこと。それから、もう一つは、崖から転げ落ちて、肩を痛めてしまったことです。本来ならば、そこで辞めても良かったのでしょうが、仲間との大事なラウンドですし、痛みを抱えながら、どうやったら打てるのかと思案しながら、痛みと痺れのある右肩は上がりませんでしたが、なんとか最終ホールまでやってきて、最後のショットはバンカーショット。
 それをオーケーまで寄せて終えましたが、その痛みは今も残っている訳です。ゴルフはそうそう怪我はしないものだとは思いますが、最大の油断は、自分を過信したことでした。同伴者の40代の若者が私のボールを見つけるために、勢いよく崖を駆け下りたのを見て、私も降りようとした瞬間、滑って転んで右肩を打撲したのですが、急な坂でしたし、もう少しよくみて降りればよかったのでしょうが、足に自信があるという気持ちが向こう見ずの行動となって、正に自業自得的に肩を痛めたということです。私も若くない、まあ、そんなことではありますが。怪我の功名というか、転んでもただでは起きないのがモンターニュの真骨頂でありますが、右肩が使えない状態でもボールを打つことが不可能ではないことも知ったラウンドでありました。何事も、痛みを伴わう経験があって、人は成長、上達するのでありましょう。
 ゴルフは、プロゴルファーのようなスポーツの面と、ゲームのような遊びの面、あるいは、心身の鍛錬としての武道なり、芸のような面もある訳ですが、今回、自らの失敗の経験も併せて、上達するために何が足りないのかなあと、家に帰って思案してみまし
たが、そのヒントが見つかりました。それが「初心忘ルベカラズ」であります。

 谷沢永一さんの「百話百言」(中公新書1985年初版)は、様々な分野で活躍した偉人的な人の言葉を収録した本ですが、その中に世阿弥(1363-1443、この時代の人にしては大変な長寿)の「花鏡(かきょう)」にある「初心忘ルベカラズ」があります。
 一般に、この言葉は、習い始めた頃の純粋さや覚悟、情熱を忘れないようにしないといけないという、どこか道徳的な教えであるという風に理解されていると思いますが、どうもそうではないようです。世阿弥の「風姿花伝」(1402年頃)は有名ですが、「花鏡」は、彼が能を大成させ、幽玄の境地を悟った老年時(1424年頃)に書かれた本でありますから、能の表現の技術(観世流)について、また同時に精神的秘訣、あの「杢兵衛のゴルフの指南書」とは真逆(笑い)、を語ったものであると考える方が正しい理解だと言えます。
 昨年亡くなられた演劇研究家でもあった山崎正和(1934-2020)さんは「変身の美学」で「初心ルベカラズ」についても書かれているようで、谷沢さんによれば、次のように述べております。
「この遺訓は、けっして初心のまじめな覚悟や情熱を忘れるなという道徳的な教えではない。むしろ初心の藝がいかに醜悪であったか、その古い記憶を現在の美を維持するために肝に銘ぜよという忠告なのである」
「世阿弥はかりにどれほど美しい表現効果がつくられようとも、それは一瞬の成功によってかすめとられる奇跡の産物であり、緊張がとければそのすぐ裏側に、人間本来の不器用な姿がいつでも顔を出そうと待ち構えている、ある意味で、美しい藝はつねに「初心」の不安の最も鋭いときにうまれ、いいかえれば醜い不適応状態と背中あわせにこそ生まれるものだといえる」

 谷沢さんは、こうした機微に気付かない、あるいは、忘れた時、能に限らず人生のすべては下降線を辿るのである、と結語しておりますが、確かに、ゴルフに限らず、上達した人も、一瞬のうちに、かつてのデビュタン(初心者)の頃の下手なゴルファーに逆戻りすることはあるわけで、スーパーショットを打てるゴルファーがものの見事にダフって首を傾げることもゴルフでは多々あります。スーパーショットは奇跡の産物であることを自覚し、そして、一瞬もおろそかにしない、緊張感のある練習と、そして本番を何
度も、何度も繰り返し行うことで、世阿弥のいう、幽玄的境地の入り口くらいまではなんとか到達できるのでしょう。が、しかし、長い、長い道のりであります。
 良い週末を祈念いたします。

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