モンターニュの折々の言葉 380「モンターニュさんは、寛大な人であると裁判長は言っていた」 [令和5年4月29日]

 昨晩は、田舎者が二人、東京駅が見える、タワービルの中のレストランのテラス席で会食を。いい年をした男二人の、なんとも冴えない感じがしないわけでもない会食でしたが、金曜日のせいなのか、それとも景気が良くなってきたのか、満席。女性グループが多かったけれども、我々の側には、男4人のグループも。もてない連中なんだろうなと、同類相憐れむという感じで横目で見ながら、私と同じくらいに田舎者で、私のフランス語講座の受講生(Tさん)と、最初はイタリアのスパークリングワインで乾杯。その後は、イタリアワインのBroccardo Barbera d’Alba 2020 Lamartinaをボトルで。

 私はイタリアワインはよくわからない。名前もよく覚えられない。家に帰って、こんなのを飲んだよと、家内に知らせたら、ああ、これね、と特に珍しいワインでもなさそうでしたが、ワイン、高くなっていますね。アルコール度数が14.5度と、やや高めでしたが、テラス席で、風が涼しく感じていたので、丁度良かったかもしれません。

 何を食べたの?というご質問もあるでしょう。夜のメニューは、松竹梅があって、梅はちょっとで、松は流石にでしたので、竹メニューを。第1前菜(モッツァレラチーズのサラダ)、第2前菜(定番のトリフと鶉卵のオーブン焼き)、パスタ(バジルペーストのスパゲッティ)、そして、メインの和牛のモモ肉の炭火焼、最後はデザートのティラミスを。味は良いのですが、たとえば、パスタを食べて、ソースが残っているので、パンにつけて食べたいなあと思っても、パンは追加料金になるのが癪に障る。なんで、もっとただで食べさせてくれないのかなあと。とは言え、イタリアのパンは、パンとは言わないようですし、フランス料理でソースを絡めてパンを食べるのとは違うのでしょうが。和牛肉、これは美味しかった。部位のせいもあるのかもしれませんが、私のはとりわけ美味しく、最近では一番の美味。

 ワインリストを眺めていたら、受講生のTさん、「え、こんなに高いの!」と驚いていましたが、10万するワインも珍しくないでしょうが、今回、このレストランを選んだのには訳があって、Tさんは、自らを成功者として、優越感に浸れるような気分を味わえるように、上から人を見下ろすような展望のあるレストランに行きたいということだったので、テラス席のあるレストランへ。

 定年退職後、一時期働いていた恵比寿で、高層タワーの最上階にあるレストランで社長さんに何度かご馳走になったことがありましたが、人生の勝利者とは思いませんでしたが、高いところから下を見ると、人も建物もちっぽけな存在に見えますよね。あくせくして、蟻のように働くことがなんだかばからしくなってきます。私は登山はしませんが、登山する人の中には、人間のこうした虚しさみたいなものを知るため、確認するために登る人もいるかもしれません。残念ながら、私は高いところが苦手な熊、高所恐怖症ですから、高いところにあるレストランはそれほど関心はない。パリのエッフェル塔にあるレストラン、ジュルヌ・ベルヌでしたか、2回か3回食べたことがありましたが、高いだけあって、料金は確かに高い。そして、ここなら、エッフェル塔を見なくてもすむ場所ではありましたが、味はまあ、それほどでもなかった気がします。

 久しぶりに会ったので、料理の合間合間に、少しフランス語の勉強もしてもらいました。時制の問題として、なかなか習得が難しい、複合過去形と半過去形の使い方、条件法と接続法の違い、直接話法と間接話法の違い、そして、会話を。日本語にない文法を覚えるのは大変です。日本語にあっても、たとえば、自動詞と他動詞の使い方ひとつとっても難しい。これに代名動詞が入ると、訳がわからなくなります。

 昔から、フランス語は恋人とか、愛人と語り合うには最適な言葉と言われておりますので、フランス語を上手くなりたいと思ったら、異性とお付き合いするのがいいのかもしれませんが、昨晩はそうはいきません。Tさんには、一人二役の、男役、女役をしながら、会話文を声を出して読んでもらったのですが、フランス人女性と甘い囁きを交わしたことがないのか、どうも上手くいかない。もうすこし、感情を込めて読んで御覧なさいと言っても、なかなか上手く語れない。

 日本人は外国語が苦手で、特に話すことが苦手ですが、役者(英語なら英語が母語の人、フランス語ならフランス人)になりきるというのが恥ずかしいのか、できませんね。また、なりきるためには、真似をするための模範的なものを身につけていないとできません。日本の義務教育過程での語学教育は、旧態依然のようですが、映像をもっと活用したらいいと思うのです。母語者が話す時の顔の表情もわかりますし、口の動かし方もわかります。抑揚も大事ですし、そういう映像を小さい頃から学習していたら、少なくとも、それらしい話し方はできるようになるのではないかなあと。

 とは言え、Tさんは、私のフランス語講座の受講生では優等生で、別によくできるというのではなくて、もう1年以上、やっているわけです。根気があるということ。現役の職業人でありますので、彼の最近の仕事の話しを聞き、また、家族の近況なども伺いながら、正直、私なら、どこかに逃げ出したくなるような苦労をしているのに、よくやっているなあと感心します。そんな苦労人のTさん、日頃お世話になっていると言いながら、今回もご馳走してくれました。私よりもだいぶ若い、むしろ息子の年に近いくらいのTさんからこれまでにも何度かご馳走になっているのですが、名目は、フランス語の授業料の一部ということ。建前上ですが。

 大っぴらには出来ない、語ることができないことが、私と彼の間にはありまして、そういうこともあって、彼は私の食事代をもっている面もないでもないのですが、彼と話をしていて、思い出したのは、そういえば、あの事件(2013年6月20日、公金横領に端を発した、大使館放火事件)で、公判を担当した裁判長は、私のことをやたらと持ち上げていたなあ、「寛大な心の持ち主」みたいに。あの事件、あの事件は法的には結審はしているし、事件を起こした張本人は、懲役12年の刑に今も服している訳ですが、私と彼との関係は終わっている訳ではなく、従って、終結していないのです。

 ところで、私は思うのです、養老孟司さんのように。何を思うかというと、ある人間がある犯罪を行おうとした場合、それを止める手立てはないということを。安倍元総理の殺害事件、先日の岸田総理に対する爆弾投下事件もそうですが、犯罪を目論む人間を事前に捉えることは出来ない。ロシアのウクライナ侵攻もしかり。

 これは、常識的なことだと思うのですが、社会というか、組織はそういう犯罪を未然に防げるはずだと思って、規則や法を強化する、つまり、秩序を強化する訳ですが、犯罪は減らない、無くならない。自殺もしかり。

 あの事件、公金横領の額はもしかしたら、私のチェックが厳しかったら、少なくなっていたかもしれない。善管注意義務を怠ったが故に横領がなされたという論理が、役所の論理でしたが、公金横領は簡単でしょう。たとえば、金庫の鍵を扱う人間が、ギャンブル好きで、業務が終わった後で、金庫から10万円取り出して、カジノに行き、すべて使ったとしてですね、翌日、何食わぬ顔をして、同僚に、ちょっとお金貸してもらえないと、もっともらしい理由をつけたら、同僚ですから、それは気の毒だな、良いよ、と貸すでしょう。借りる理由次第でもありますが。そして、金庫にその金を入れて充当し、帳簿上も、また現金上も異常はない。そういうことを繰り返して、公金横領はできるでしょう。まして、会計上の一番の責任者が長期的に不在である場合、ちょろいもの。次第次第に横領する金額が大きくなるのは、小説などでもよく見られますが、一獲千金を狙って、それが上手くいかなくなって、100万が1000万とどんどんと雪だるま式に増えて、返せる見込みがなくなって、じゃあ放火だということに。

 放火が仮に証拠隠滅のためであるとか、あるいは自暴自棄的に自らの命も焼いてしまおうと思っての犯罪であるかを問わず、放火自体を未然に防ぐなんてことはできないでしょう。未然に防ぐことができないにも関わらず、監督責任として、私は処罰された訳ですが、放火魔もそうですが、犯罪者の心理を役所づとめの人間が、分かるはずもない。ましてや熊には。放火で大使館が損傷したことへの責任の帰結もそうですし、横領した人間ではなくて、公金を扱う責任者として私が責任を問われて、犯罪者の変わりに横領金を支弁させられたのは、皆、社会脳による秩序の維持のためでありましょう。

 役所というのは、秩序そのものです。ですから、根本的な問題というか、課題には手をつけない。当時、この事件を主として担当していた課の課長さんが「国はお金を持っている人から取るんです」と言って、さあ、払いなさいと催促しておりましたが、それはそれとして、世の人に私は問うのです。着任して席も温まらないうちに、いそいそとカジノに出かけて、公金で興ずるような人間を優秀な人間だといって、大使館に送ってくるような組織はまともか、と。

 今日のまとめです。犯罪というのは、どこか、自殺行為に似ているような気がするのです。止められないというか。止められる筈だと思って、色々と施策を施すけれども、そうにはならないでしょう。犯罪を無くすには、法だとか、規則だとかの秩序の強化だけでは無理だと思うのですね。ここには、やはり家庭や学校も含んでの、教育の問題があると思うのです。教育が何を求めるかということですが、お金がないと幸せが得られないというのではなくてですね、もっと精神的な喜びを得られるような、そういうものを求める人が増えるような教育が必要な気がします。

 ちなみに、私は決して寛大な人間ではありません。ただ、人助けはしたいとは思っている人間です。それ故に、バイトで小中学校の生徒の補習的な授業をしている訳であり、フランス語の講座もしている。ただですね、助けようと心が動かされる場合、それは助けを求めている人がやっていること、あるいはやろうとしていることが本人とって良いことだなと私が思う場合であって、そして、その人がやっていること、やろうとしていることが私の職業観や、人生観に合致している限りにおいてです。そうでない場合、私は手助けはしませんし、できません。そして、結果的に、なるようにしかならないということを悟るとしても、あの事件は、フランス語で言えば、完結した複合過去形で表せる事件ではなく、言わば今も半過去形で継続している事件なのであります。どうも失礼しました。

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