阿片戦争博物館:帝国主義の惨禍を伝える圧倒的なエモさ

阿片戦争博物館は、先ほどの虎門海戦博物館と異なり、歴史的な状況に大きく展示が割かれている。
当時の清で外国貿易は認可制で、かつ阿片取引は禁止されていたが、イギリス商人が広東の商人に賄賂を渡して密貿易を始めるところから阿片取引はスタートし、やがて最大の輸入品目になるに至った。
当時の清は今の中国を思わせる巨大な官僚国家で、自由な商人が外国と結びついて自己を発展させる様は、少し今の深圳を思い起こされる。当時の広州の豊かな街並みは外国貿易の魅力をアピールする。

外国貿易の魅力

イギリスは茶の代金として、金の代わりに阿片との取引をせまり、阿片を大量に清に輸入した。
最近自由化が進む大麻のようなカルチャーと結びついたドラッグとは違い、阿片は精製するとヘロインになる、19世紀も今も絶対悪とされる薬物だ。
大量に輸入される阿片は茶などの輸出量を上回り、清から銀が流出していく事態を招いた。

それに対する清帝国の対応策が、阿片戦争の引き金となった。

道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

実際に残る阿片戦争の史跡が伝えるリアリティ

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自分の中で整理がついてまとめたものは、何かしら記事やレポートにするけど、「まとまるまえのものや小ネタをすぐ見たい」という要望を聞いて、フォトレポートを始めることにしました。

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