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自#156|自分自身のIdentityに出会うまで(自由note)

 カウンターテナー歌手の藤木大地さんのインタビュー記事を読みました。藤木さんは、ルーツ野球少年で、子供の頃は、野茂英雄さんが、ヒーローだったそうです。中学校で合唱部に入ったのが、歌い始めたきっかけです。合唱部の顧問の先生に「声がいいね」と、褒(ほ)められて「自分が本来持っている力を褒められたのは初めてで、そのうれしさが忘れられなかった」と語っています。その先生は、褒めて伸ばすタイプの指導者だったわけです。世の中には、伸びたら褒めると云うタイプもいます(私がそうです)。そういうタイプの指導者に出会わなくて、Luckyだったと言えるのかもしれません。

 藤木さんが入部した宮崎大学教育学部付属中は、合唱コンクールで、全国大会に進出する強豪校です。全国大会のトップクラスの学校の合唱は、技術的にはともかくとして、歌の良さ、歌の価値と云う観点で見れば、プロの合唱に決してヒケを取らない筈です。藤木さんは、全国大会で、歌の魅力、奥深さを知り、どうなるか判らないけど、歌って行こうと決心されたんだろうと想像しています。

 私は、中学生のバンドの演奏も、それなりの数、これまでの人生で聞いて来ました。毎年、11月くらいに中学生以下のジュニアバンドの大会が、渋谷の東京児童館で開催されていて、そこで、多くのジュニアバンドの演奏を聞きました。Voは、女子の方が圧倒的に多いんですが、男子のVoもいます。ボーイソプラノとかは、それはそれで、価値のある歌だろうと推測できますが、バンドのVoは、基本、地声で歌います。まんま裏声と云う歌い方はしません。裏声を使う場合も、地声とミックスします。私が、過去に聞いた限り、中学生の男の子のVoで、歌えていると感じた歌い手さんは、一人もいません。中学生くらいの頃は、声が安定してなくて、中途半端な歌になってしまいます。男の子が、ちゃんと歌えるようになるのは、二十歳を過ぎてからです。

 バンドも合唱も、おそらく事情は同じです。小5くらいまでは、ボーイソプラノできれいな声が出せるとしても、中学生の男の子の声は、箸にも棒にもかからないと推察できます。が、箸にも棒にもかからない時期であっても、合唱のすぐれた指導者は、天分をきちんと見抜いて、男の子の声を守り、大事に育てて行くんだろうと想像できます。

 藤木さんは、県立宮崎大宮高校に入学して、本格的に声楽の道を志し、高校卒業後、東京芸大の声楽科に進学します。芸大メサイアで、ソリストを務めたりもします。順風満帆な音楽人生だったわけですが、大学院に落ちてしまいます。メサイアのソリストが、大学院に落ちると云うのも、不思議な気がしますが、指導する先生方は、「大学の声楽止まりで、そっから上には行けない」と、多分、判断されたんです。藤木さん自身も、「大学院に落ちたのが、最初の試練だったかも」と、仰っています。

 その後、新国立劇場のオペラ研修所に何とか潜り込み、イタリアにも短期留学します。イタリアに行って、自分の声と技術が、歌いたい世界にまったく届いてないと、思い知ったそうです。が、今さら後ろ向きにはなれないので、ヨーロッパの劇場に「26歳の日本のテノールです。オーディションをして下さい」と、70通くらい手紙と履歴書を送ったそうです。数通(おそらく3、4通)返事があって、ある劇場で歌ったら、音楽監督に「声は悪くない。でも、君はまだオーディションを受けない方がいい。欧州の劇場にはネットワークがある。君が今このくらいの実力だと知れ渡ってしまうと、仕事が来なくなる」と、言われたそうです。つまり、現時点での実力では、ヨーロッパの劇場では通用しないと、はっきりダメ出しをされたと云うことです。

 きっぱりと諦めなさいと言われた訳ではないし、音楽への夢を捨てられず、視野を広げるために、アメリカに行って、メトロポリタン歌劇場や、ブロードウェーのミュージカルを見て回ります。クラシックを「輸入」したアメリカが、オペラハウスを連日満員にし、なおかつミュージカルと云う独自な文化を創り上げている様子を見て、劇場経営に興味を抱きます。

 藤木さんは、帰国して、著名な音楽ブロデューサーのアシスタントになり、小澤征爾さんが、総監督を務めるサイトウキネンフェスティバル松本のスケジュール作成や、歌手の送迎、契約書の翻訳など、舞台制作の仕事に携わります。人一人が、舞台に立つために、どれだけの人の力が必要なのかと云うことを、肌で感じ取ったそうです。

 その後、ウィーンの大学に行って、文化経営学を学ぼうとします。が、歌手になる夢も諦めてなかったので、ウィーンに留学していた時、テノールのオーディションを受けようとします。直前に風邪を引き、声が出なくなります。声楽の場合、風邪を引いたら、普通、そこで、The Endです。翌日、持ち直しているかもしれないと期待して、藤木さんは、取り敢えず、暗譜だけはしておこうと、裏声で音程を辿ります。「えっ!!」と、自分自身でも驚くほど、いい声が出ていたそうです。カウンターテナー歌手としての藤木さんの誕生の瞬間です。ちなみに、裏声で女性の声域を歌うのが、カウンターテナーの役割です。カウンターテナーと云うのは、変声期前の少年のボーイソプラノや、去勢をして声帯の成長を止めるカストラートの声とは似て非なる新たな声域なんだろうと、想像できます。藤木さんが、カウンターテナーとしての自分の声を発見したのは、而立(三十歳)の時です。12歳で歌い始めて、自分自身のIdentityとも云うべき自分の声に出会うまでに、18年の歳月を費やしています。三十歳が早いのか、遅いのかと云うことは、正直、判りませんが、人生百年時代と言われていますし、80代くらいまで歌えるとしたら、50年以上歌えます。決して、遅くはないかなと、個人的には思います。2017年に日本人カウンターテナーとして初めて、ウィーン国立歌劇場でデビューします。この大舞台を経験して、ようやくスタート地点に立てたと感じたそうです。
「ちゃんと準備すれば、国籍もキャリアも関係なく、観客に受け止めて貰えることが、実感として分かった。どんな曲も、美しい言葉を思いついた瞬間の詩人のような、みずみずしい心で、歌い続けられるかどうか、それが新たな目標になりました」と語っています。音楽の深淵の入り口に立った方の、真摯(しんし)な飾らない真実の言葉だと、納得しました。

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