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僕が中米のジャングルでマヤの先住民のお家にお世話になってきたお話

あれは確か今から6年以上前、この旅を始めて1年半ほどの頃の話。

僕は当時すでに巨大な南米大陸の旅を終え、その舞台を中米へと移しており、その中米でもすでに様々な国で10か月ほど旅を続けていました。

その時僕が旅していたのは、そもそもメジャーでは無い中米の中でも特に知名度の少ない「ベリーズ」という国。
有名なメキシコとグアテマラの二か国に挟まれている、カリブ海沿いの小さな国。


中南米の90%以上の国の公用語がスペイン語なのに対し、ここ「ベリーズ」の公用語だけはなぜか英語。
それはベリーズが元々隣国グアテマラの領地でありながら、それをイギリスに奪い取られた形で植民地になったからという少し複雑な歴史によるもの。

そんな中南米の中でも少し複雑な歴史を持つ「ベリーズ」は、小国ながらそこに暮らす人種も様々です。
マヤ系先住民、スペイン人と先住民の混血、アフリカとヨーロッパの混血、アフリカと先住民の混血、ドイツ系キリスト教移民、中国系移民など。


そして僕はそんな「ベリーズ」の南部の小さな町を旅してる時に、その町のさらに奥地、グアテマラとの国境近くのジャングルに、マヤの先住民たちが未だに昔ながらの生活をしてる村がいくつか点在しているという情報を手に入れました。

その情報に俄然興味を持った僕がさっそく色々聞き込みをしてみると、どうやら今僕がいる町からそういう村のお家に行って一緒に食事ができるっていうようなツアーが存在することを知ったんです。


うーん、でもそれは、どうなんだろう…。


もちろんそのツアーが悪いってことじゃ全くないんだけど、これまでにもおかげさまですでに中南米の他の地域で色んな濃密な体験をさせてもらってきた僕にとって、ツアーでガイドと一緒にそういう場所に行って、一緒に食事をさせてもらうだけっていう内容で、果たして満足できるんでしょうか。

というわけで、そのツアーに参加するのはとりあえず保留ってことで、僕はさらに自分なりに色々踏み込んで調べてみました。

すると、ある一つの観光地化されていない村に唯一のパブリックフォン(太陽光発電で動いている共有電話)があるということが分かり、その電話番号をなんとかゲットした僕は、直接自分でその村に電話してみることに。
(基本はマヤ語だけど、公用語である英語も彼らは少し話せます)

そして、その村の村長とお話をさせてもらって、結果なんと、その村の一つのお家で数日間お泊りさせていただけることが決定!

というわけで、それから数日後の2012年8月1日朝、
僕は今いる町から4日間にたった1本だけ出ている超ローカルバスに乗って、そのマヤ系先住民が住むジャングルの奥地の村に向かったのです。
(恒例の始まり方)



さて、3時間弱バスに揺られてたどり着いた村の入り口では、今回お世話になるアルベルトさん一家の子供が一人出迎えに来てくれていました。

このジャングルの奥にその村はあります。


これがマヤの先住民たちが住むその村。
ほとんどの家が茅葺き。


そんな中、今回お世話になるアルベルトさんのお家は珍しく木造。
少しリッチ。


こんな訳の分からないアジア人訪問者を笑顔で迎え入れてくれた「ローサ」お母さん。
マヤ系特有のお顔立ち。
最近新しく女の子が生まれたらしい。


ちなみに、アルベルト一家は、お父さん・お母さん・男の子3人・女の子2人(赤ん坊を含む)の7人家族。

ただ、当たり前のことかもしれないけど、この村は普段一切外国人が来るような場所ではないので、僕が到着してしばらくは子供たち全員が見慣れないアジア人に対してシャイというか警戒心というか、ほぼ会話もしてくれないし、あまり笑顔などは見せてくれませんでした。


なかなか笑顔を見せてくれない「ジュニア」(長男)と「アントニオ」(三男)


慣れない外国人への対応に戸惑う3人。(笑)


照れながらも、ようやく少しだけ笑顔を見せてくれた「ナイジェリ」(長女)


でもまあ、このあたりは僕の得意分野。
せっかく来たからには彼らの日常に入り込みたい僕は、この後この子たちと積極的に絡みまくり、大げさなジェスチャーやくだらない冗談を連発。
数時間も経たないうちに、すぐに子供たち全員と打ち解けることができました。



さて、その日からこのお家には結局次のバスがこの村に来るまでの4日間丸々お世話になったんだけど、その間僕が何をしていたかというと、特に特筆すべきことは何もしていません。

ただただ毎日小さな村の中を散歩し、やんちゃな子供たちと近くの小川で川遊びをし、みんなで一緒にお家でご飯を食べて色んなお話をし、夜は星空を見てから僕用に用意してもらった小さな部屋で寝る、っていうことの繰り返し。

でも、逆に彼らとのその飾らないシンプルな毎日がとてもリアルな日常で、僕にとってはとても貴重で充実した日々でした。


僕が教えた偽空手ポーズを披露してくれるジュニアとアントニオ。


近くの川が唯一の子供たちの遊び場。
とにかく何時間でも飽きずに、飛び込んで、飛び込んで、飛び込みまくる!


そして、一緒に遊んでた僕が疲れ果ててこっそり家に帰ろうとすると、すぐに子供たちに連れ戻されます(笑)


もちろん洗濯機も一切無いこの村では、みんなこの川で洗濯をし、時に体も洗います。
とにかく生活に欠かせない大事な川。


村には、電気や水道も通っていません。
夜は基本アルコールランプで部屋を照らします。
(たまに、昼間にシンプルな太陽光発電で集めたわずかな電気を使うこともあります。)


この村の村長さん。
いつも上半身裸。


この村では、男性はぐーたらばっかりで、女性ばかりが働いている印象を受けました。


お酒が大好きなアルベルト父さん。
昼間、村唯一の商店で買ったばかりのぬるいビールを、我慢できずに店の前ですぐに一気。


でも、優しいお父さんはその後僕にもちゃんと一本奢ってくれます。
(貴重なお金なのに、なんだか申し訳ない)

ベリーズのビール、「BELIKIN BEER」。


酔っぱらって、弾けもしないのに僕のギターを弾いて歌おうとするお父さん。
でもローサ母さんは、そんなお父さんをうっとりした目で見つめる。
素敵な夫婦。


僕が教えたことによって、なぜか村の子供たちの中で流行ってしまったデビルマンポーズ。


デビルマンポーズのやり方を少し間違えてる、かわいいナイジェリと、
ホラー映画みたいな、怖いナイジェリ。


女性が働くこの村だからか、子供たちの中でもナイジェリだけが断然働き者。
男の子は遊んでいても、彼女だけが洗濯、赤ん坊の世話、全部やっていました。


僕はそんなナイジェリの大ファン。


ナイジェリと赤ん坊写真館。



村ではトウモロコシや豆を自給自足する生活が基本です。

そんな村のお家でローサ母さんが作ってくれる毎日の食事。
基本、豆です。
豆と、卵と、トウモロコシで作ったトルティーヤ。
バリエーションはあんまりありません。


え、まじでこれだけ?って思うかもしれませんが、ここで生活しているとこれが信じられないぐらい本当に美味しく感じるんです。

毎日同じものを作ってるからか、味付けがマジで絶妙、ちょいピリ辛で本当に毎日毎食食べても飽きない美味しさでした。


ある日のお昼は、ココアの原形のような、カカオで作った甘いジュースを作ってくれました。
これもすごく美味しかった。


いつも本当の家族のように接してくれたローサ母さんは、なんと授乳中でも快く写真を撮らせてくれました。



子供たちはマヤ系の先住民だけあって、やはり「サパティスタ民族解放軍」に憧れが強いようです。

(サパティスタ民族解放軍に関する説明↓)


すぐに彼らの真似をしたがります。


子供たち。



とにかく、電気も水道もないこの村で彼らと一緒に過ごさせてもらった4日間は、こんな風にとても楽しくて平和で貴重な時間でした。

最終日前夜、夕食の後みんながランプの元に集まって、いつもより少し深い話になりました。

「そもそもタカはなぜこの村に来てくれたんだい?」って。

ここで取り繕ってもしかたないと思った僕は正直に答えました。

「今僕は世界一周という旅をしていて、色んな国の色んなものを見たり、色んな人に会ったりしてるんだ。その中でベリーズに来てこの村のことを知って、この村の人に会ってみたいと思ってここに来させてもらったんだよ。」

彼らはその答えに、分かったような分らないような少し不思議な顔をしています。

もちろんというかなんというか、そもそもベリーズ以外の国、いや、一番近くの町以外にすら行ったことがなく、テレビや本などからの情報もほぼない村に住む彼らが、こういう旅のことをちゃんと理解できるとは僕だって思ってはいませんでした。

でも、だからといってここで適当な嘘をつくのもおかしいので、僕は真面目に続けます。

「僕が住んでる遠いジャパンって国はね、他のほとんどの国よりもとってもお金持ちの国で、頑張って働けばとても多くのお金を貯めることができて、そのお金を使って世界中の国に旅行に行くことができるんだ。だからこうして僕も旅ができて、見たいものを見れてる。

でもね、それは僕が凄いってことじゃなくて、僕はただジャパンって国に生まれてすごくラッキーだったっていうだけ。中身はみんなと何にも変わりない。もしジャパンに生まれてなかったら、僕はこんなことは全くできなかったよ。ただ運が良かっただけ。

たださ、ここで一緒にみんなと過ごして思ったけど、たとえ他の国になんか行かなくても、みんなここで家族と一緒に毎日楽しく暮らして幸せでしょ?やっぱり何が幸せかなんて、人それぞれ違うよね。他の国に行けるとか、お金があるから絶対に幸せだとは限らないもんね。」


すると男の子たちは一斉に「でも、僕はいつかこの国を出てメキシコに住みたい!」だの「アメリカに行ってみたい!」だの真剣な表情で言い出しました。


…そっか、やっぱり子供たちにはそういう夢があるのか。でも、この村に住む限り、それはかなり厳しいことだろうな。俺もちょっといらんこと言ってしまったかな。

そう思った僕は、少し後悔し、続ける言葉を失くしてしまいました。


そんな中お母さんが言いました。

「ほんとはね、タカはもう私たちの家族だから、これからもここにずっといてほしい。でも、タカは今世界中を旅してるんでしょ。だから明日出発する。それは分かったわ。でも、これから私たちはどうやってタカに連絡を取ればいいの?」


もちろん、たった4日間一緒に過ごさせてもらっただけなのにこれからもここにずっといてほしいと言ってもらえたこともそうだけど、僕は彼らがこれからも僕と連絡を取りたいと思ってくれていることがとても嬉しく、またとても驚きでもありました。

ただ、気持ちはすごくありがたいけど、実際はそれはどうも難しそうです。

だって、彼らから連絡といっても、旅を続ける僕に住所なんてないし、もちろん電話番号もない、僕が持っているのは唯一メールアドレスだけだから。
もちろんここにはパソコンやインターネット、携帯電話すら一切ありません。

それでも、どうしても僕の連絡先が欲しいと真剣にお願いしてくる彼らに、僕はきっとこれが使われることはずっとないだろうと分かっていながらも、一応自分のメールアドレスをメモ帳を破った小さな紙切れに書いて手渡しました。

ずっと使われることがないと分かっていながらメールアドレスを渡すなんて薄情かもしれないけど、この時の僕にはそれぐらいしかできなかったんです。


とにかく、そうして次の日の昼、
「4日間ほんとにありがとう。あなたたちと過ごした日々は一生忘れません。」
と、みんなと涙・涙の別れをし、僕はまたこの旅を再開させたのです。


ただ、この話はここで終わりはしませんでした…。



あれから月日は流れ、僕は旅を続け、あれからもたくさんの場所でたくさんの新しい経験を重ねました。

ただ、正直、少しずつ少しずつあのベリーズのジャングルの村での4日間を思い出すことは減っていきました。
こういう旅の中では日々新しい記憶が生まれ、昔の記憶は段々と脳の奥の方へ追いやられていくから。

でももちろん、だからといってそれを完全に忘れてしまったというわけじゃありません。
例えばあの時の写真などを見れば、今回こうして文章に書いたようにすぐに全てを鮮明に思い出せるし、何度も言うけど、あの4日間は僕にとって本当に貴重な体験でした。

別れ際の、「一生忘れません」っていう臭いセリフだって、あの時は本気で心から言っていましたし。

それでもやっぱり、日々続く旅の中で、悲しいかな自発的にあの4日間を思い出すことは徐々に減っていき、そしてそれはいつの間にか、たくさんある旅の思い出の内の一つに過ぎなくなっていったんです。

でもね、それは仕方ないことなのかもしれません。

言い訳に聞こえるかもしれないけど、それが旅というものだと思うから。

しかも、僕は一つの場所にずっと留まっているわけでも、旅を終えて日本に帰ったわけでもなく、今も常に新しいものに出会い続けてるわけだから。

そしてそれは、村の家族にとっても結局は同じことだと僕は勝手に思っていました。
僕は自分のエゴであの村を訪れたけど、彼らにとっても僕なんてきっと日々の生活の中でその存在はいつか消えていくであろうただの一時的な珍客に過ぎないはずだって。


そして、あれから2年半もたった2015年3月のある日。
今や長かった中南米の旅もすっかり過去のこととなり、その時は「モロッコ」のサハラ砂漠周辺を夢中で旅していた僕のもとに一通のメールが届きます。

それはある見知らぬアメリカ人男性からの思わぬメールでした。

メールの内容はこうです。

メールの送り主である彼は今、いわゆるアメリカ版の青年海外協力隊(US Peace Corps)に所属していて、先日そのボランティアでなんと偶然にも中米「ベリーズ」のあのマヤの先住民の村に支援に入ったらしいんです。

そして、ある一つの家族に出会いました。

彼らはすぐに一つの紙切れを彼に見せてきて、ここに連絡してくれと強くお願いしてきました。

どうかタカが元気にしているのか尋ねてくれ、と。


「君は当時世界一周の旅をしていて、彼らの家に滞在したらしいね。
そして彼らは、君が今年日本に帰国するつもりだと言ったのをよく覚えていて、あれから無事に日本に戻ることができたのかとても心配しているよ。
今度またボランティアであの村に戻るから、何か彼らに伝えたいことがあったら教えてほしい。」


…そういう内容のメールでした。

衝撃でした。

そして、一瞬にしてあの4日間の思い出がフラッシュバックし、僕は色んな想いが交差して涙が止まらなくなりました。

だって、彼らは未だに僕のことを思ってくれていて、あれから2年半もたった今でも僕のメールアドレスを大切に保管してくれていたんです。
僕がその場しのぎのような形で書いた、メモ帳の端をちぎっただけのあの小さな紙切れを、です。

そして、偶然にもあの村に海外協力隊の支援が入り、あの家族はボランティアのアメリカ人青年にそのメールアドレスを託し、ついに本当に僕のもとにメッセージが届いた、と。

長い時を経て、まさか本当にそんなことが起きるなんて…。

そしてなにより、なんで僕はいつも自分自身のことばっかりで、今まで彼らのそういう気持ちにまで思いが至らなかったんでしょうか。
今になって冷静に考えてみれば、分かることはたくさんあるのに…。


娯楽の少ない村です。
あの家族はきっと、僕が去った後も夜な夜な僕の話をし、ずっとずっと僕の事を本気で心配してくれていたんでしょう。

僕が平然と旅を続け、彼らのことを一切思い出さなくなっても、なおです。

僕にとってはただの旅の一コマでも、彼らにとってはあの時の言葉通り、本当に一生忘れられないような大きな4日間だったのかもしれません。

そりゃあ、そもそも外国人が来るような場所ではないジャングルの奥地の小さな村に、ある日突然世界一周の旅をしているというワケも分からないアジア人が訪ねて来て、4日間も一緒に生活をしたんです。

普段、同じようなことの繰り返しの平和な日常の中で、それはなんと非日常で、なんと刺激的な出来事だったことでしょうか。


そして、今思えば確かにあの最終日前夜、僕は彼らからこんな質問も受けていました。

「で、タカの旅はいつまで続いて、あとどのぐらいでジャパンに帰るんだい?」

自分自身でもまだ答えがよく分かっていないこの質問に僕は迷いましたが、こればっかりは正直に答えたところで余計彼らの頭を混乱させるだけだろうと思い、僕はとっさに適当な数字を答えました。

「うーん、たぶんあと2年間ぐらいかな。2年後にはジャパンに帰ると思うよ。」


つまり、この時僕が適当に答えた「2年間」という長い年月の間、
彼らはその言葉を信じきった上で、僕の身を本気で案じ続けてくれていたわけです。

そして、ようやく本当にその2年が経って、「ああ、タカは無事にジャパンに帰れたんだろうか」って。

もう、本当にどうしようもなく胸が苦しくてたまりません。


僕はすぐにそのアメリカ人の彼にメールを返しました。

「メール本当にありがとうございます。彼らの事と彼らと一緒に過ごした日々はもちろん強く覚えています。
ただ、実は僕はまだ世界一周の旅を続けていて、今はモロッコにいます。そして日本に帰るのはまだ何年も先になりそうです。
もし次にあなたがあの村に戻った時は、どうか彼らに僕はまだ旅を続けているという事と、僕からの感謝をお伝えください。
そして、何枚かその当時の写真を添付しておくので、もしよければそれをプリントして彼らに手渡してもらえないでしょうか。」


メールを返し終えた後も、僕は金縛りにあったようにしばらく身動きが取れませんでした。

彼らから連絡をもらえた喜び、彼らが僕を思い続けていてくれたという喜び、もちろんそれも大きいですが、それ以上に、僕は今までなんて思慮が浅かったんだろうとか、薄情さとか、視野の狭さとか、自分自身のそういうものに深く気付かされて、頭を殴られたような気持ちだったんです。

僕はこの長い旅の中で、いつも突然の思い付きやエゴで色んな体験や挑戦をしてきました。

ぶっちゃけ、先住民のお家にお世話になったりしたのも、あれが初めてというわけではありません。

決して軽い気持ちというわけではありませんが、正直いつもそこまで深い思慮もなく、自分がまだ知らない世界の日常に異分子としてズカズカと入っていき、そして自分が満足すればそこを去り、また次の場所を求めて旅を続ける。
言ってしまえば、その繰り返しをしてきたわけです。

そして、さっきも言ったように、それらの思い出は時が経つにつれ、ただの旅の一コマとして消化されていきます。

いや、それが悪いことと思ってるわけじゃないです。
自分勝手かもしれないけど、やはり「自己満足」こそ旅というものの本質だと思うから。

でもこのメールで、

これからはもう少し遠慮しなきゃとか、人にお世話をかけちゃだめだとかそういうことじゃなく、

僕はもっとちゃんと出会った相手側の気持ちや、彼らにとって僕の存在というのはどういうものなのかということを、「現実」としてもっともっと深く認識して、常にちゃんと理解だけはしておかなければいけないと、強く思ったんです。

「しちゃだめ」じゃなくて、ただ「ちゃんと分かっておけ」ということです。

だって、今回はたまたまこうやって奇跡的に連絡をもらえましたが、さっきも言ったように、僕は今まで他の場所でも大なり小なり同じような体験をしてきているわけです。

つまり僕が今まで旅してきた場所では、ベリーズのあの家族のように僕の事を思い続けてくれている人たちがもしかしたら他にも何人もいるかもしれないっていうことなんです。

そこなんです。

今後新しく人と出会うことに逃げ腰になる必要はないし、旅のやり方も全く変える必要はないけど、でも、そこだけはいつだって「認識」しておくべきだってこと。

こちらにとっては、ああ貴重な体験をしたな、終わり!ってことでも、出会ったあちら側にとっては決してそれだけではないかもしれない。
僕はいつもそういう旅をしているんだってこと。


その夜、僕は全く眠れずに、この旅で今まで出会ってきた人の顔を次々と思い浮かべながら朝まで過ごしました。


とにかく、この、時や場所や人を隔てた彼らからのメールは、それからの僕の旅の考え方を大きく変え、まさに僕の旅のターニングポイントとなったのです。


アルベルト一家のみんな、あの時は本当にお世話になりました。
そして、ずっと僕の事を覚えていてくれて、僕に大切なことを気付かせてくれて本当にありがとう。
どうか、どうか、いつまでも健康で幸せで。

(ただ、なんで僕が裸足なのにアントニオはサンダル履いてるのか。笑)



…と、
今回はセンチメンタルな僕による、そんな思い出話でした。
みなさんも、こんな長文にお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

終わりです。



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