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いま、わたしはそれを見た|アフリカ・タンガニーカのセキスイハウス体験

京都大学アフリカ学術調査隊のメンバーとして、タンガニイカ湖畔に建設された「カボゴ基地」に在った民族学者・梅棹忠夫(1920-2010年)。あるとき、調査隊のもとを訪れた現地の女性が、基地をみて「大きな声で歌うように」叫んだエピソードを書き留めています(★1)。

 わたしはまえから聞いていた
 ムユクにはムズングの家がある、と
 いま、わたしはそれを見た
 いま、わたしはそれを見た

「ムユク」とは基地が建ってる地名。「ムズング」は白人を意味します。アフリカの人々からすると、日本人は白人と同じカテゴリーになるのだそう。

女たちは、基地の建物を感嘆してながめた。女たちにとっては、なにもかも、めずらしく、おどろくべきものに見えたようだった。
梅棹忠夫『サバンナの記録』朝日新聞社、1965、p.21)

さらに「歌」のあとにこう記します。

それは、強い感動の、素朴な表現であった。この女にとって、これは、『文明』というものの、最初の実感的体験であったのではないだろうか。女は、このときのことを、あるいは一生わすれないでいるかもしれない。そして、彼女の子どもに、その感動を語ってきかせようとするかもしれない。しかし、その感動は、多くのことばをついやしても、実感的には伝えることができないにちがいない。彼女もまた、『まえから聞いていた』文明を、自分の眼でたしかめたときに、はじめて強い感動を受けたのである。
梅棹忠夫『サバンナの記録』朝日新聞社、1965、p.22)

南のほうの村の女に「『文明』というものの、最初の実感的体験」をもたらした「カボゴ基地」とは、積水ハウス産業(現・積水ハウス)の「セキスイハウスA型」(1960年)。金色に輝くサバンナの地に降り立った青光りするプレハブ住宅。

現地女性が叫んだ「いま、私はそれを見た」の前後を辿ってみます。

セキスイハウスのカボゴ基地

「ムズングの家」ことカボゴ基地は、積水ハウス産業が調査隊(1961年当時は「京都大学アフリカ類人猿学術調査隊」という名称)に寄贈した組立キットを、日本から遠路はるばるアフリカ大陸まで運んで、現地で組み立てたもの。建設資材は全部で50トン以上に及んだといいます。建設場所はカボゴ岬付近。

研究施設を建設する場所としては、さまざまな候補地を検討したすえに、タンガニイカ湖畔のカボゴ岬の付近に決定した。その近所に住むチンパンジーを長期にわたって観察するためである。
(『アフリカ社会の研究』1968年、p.29)

調査隊長・今西錦司編による『アフリカ大陸』には次にように書かれています。

われわれのもって行った建物はセキスイ組立てハウスであるが、骨組は軽量型鋼でつくられている。今西は、組立てハウスはひじょうに簡単なものだと思っていた。南極のようにバタバタとたてる魂胆だった。
(今西錦司編『アフリカ大陸』1963年、pp.239-240)

今西が「南極のようにバタバタと」といっているのは南極基地のこと。ただ、こちらは坪70マンの代物で「セキスイハウスA型」とは比較にならないもの。

片寄(俊秀)棟梁が日本できいたところでは、現地は木がまばらに生えているだけで、材料にする木もない、工業はもちろん発達していない、というたいへんなところだということなので、セメント三トン、釘までもって行った。ところが、今ではいうも恥かしいのだが、現地についてみると日本で聞くのとは大ちがいで、商業は発達しているし、キゴマではセメントも充分手に入る。ウガンダでセメントをかなり製造しているのだ。現地のイギリス人が笑いながら、”君たちは、アフリカをなんと思っているのか”といった。
(今西錦司編『アフリカ大陸』1963年、p.240)

ちなみに「カボゴ基地」には隊員たちが駐在する基地として「セキスイハウスA型」(図1)を建設しただけでなく、倉庫兼隊長室として小さな別棟も建設されました。そちらは大和ハウス工業から寄贈を受けた組立住宅「ミゼットハウス」(1959年)。メーカー住宅史冒頭を飾る二大プレハブ住宅が夢の競演が遠くアフリカ大陸で果たされたのでした。

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図1 カボゴ基地の外観・内観(★2)

遠くアフリカの地で建てられたふたつのプレハブ住宅は、京都大学学術調査隊写真コレクションでみることができます。「内容から選ぶ」にて「カボゴ基地」と入力して検索すると、竣工写真だけでなく建設途中やスナップ写真がワンサカでてきます。

セキスイハウスA型とミゼットハウス

1960年に販売開始された「セキスイハウスA型」は、軽量鉄骨の骨組み、アルミパネル外壁、スチールサッシ、塩化ビニールの庇などでつくられたプレハブ住宅★3。当時まだ木造住宅が当たり前だった時代に、その斬新な外観は衝撃をもって日本社会にあらわれました(図1)。

セキスイハウスA型

図1 セキスイハウスA型(★4)

販売当時のリーフレットでは「鉄とアルミとプラスチックがガッチリとスクラム組んだ新しい住宅」と銘打ちたれていますが、この「新しい住宅」に込められた気負いは、一般大衆には届かず、翌1961年にはさまざまな改良を加えた新商品「セキスイハウスB型」をリリースします。

言ってみればそれは「新しい住宅」度合いを薄め、購買意欲をそそりやすい姿にしたもの。前から聞いていたプレハブ住宅というものを見た「実感的体験」は、積もり積もって社会を動かすキッカケにはなったかもしれませんが、その「衝撃」ゆえに販売実績には直結しなかったみたい。

「セキスイハウスA型」は、プレハブ住宅としてははじめて「登録有形文化財(建造物)」となりました。解説文にはこうあります。

セキスイハウスA型は、軽量鉄骨にアルミサンドイッチパネルを取り付ける構法で作られ、居室に水まわりを備えた本格的な工業化住宅の国産第一号である。本住宅は、セキスイハウスA型国内唯一のほぼ完存する遺構として、我が国の戦後住宅史上価値が高い。
(文化庁ホームページ)

また、今西隊長の部屋としても活用された大和ハウス工業の「ミゼットハウス」は、戦後プレハブ住宅史、日本ハウスメーカー史の第1ページを飾るエポック的住宅(図2)。

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図2 ミゼットハウス(★5)

創業者・石橋信夫が趣味の川釣りからの帰り道、もう遅いのに外で遊ぶ子供たちをみて声をかけたところ、家に帰っても居場所がないとの応え。核家族化とベビーブームの影響でした。庭の片隅に建てられる小さな勉強部屋を着想したといいます。

1959年に3カ月程で「ミゼットハウス」を開発し、3坪(約9.9㎡)タイプと2.25坪(約7.4㎡)タイプの2種類が発売された。(中略)価格は坪単価4万円以下、建築確認申請の必要がない10㎡以下の面積とし、「3時間で建つ勉強部屋」として爆発的なヒットとなった。
(新建築編『大和ハウス工業:建築設計の仕事』、2018年)

どんな場所でも、大工・職人の手を借りずに、短時間で建設することが可能。そんなプレハブ住宅の長所が、はたしてアフリカの地でも有効なのか。実際のところ、どうだったのでしょう。

アフリカでプレハブを建てる

ムユクの浜には人家は一軒もない。そんな丘の上に日本のプレハブ住宅が建設されました。しかも建設にあたったのは、調査隊建設部の日本人のほかは、現地で雇った人たち(図3)。

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図3 カボゴ基地とトシ組(★6)

建築には全くの素人で、当然にプレハブ住宅なんて触ったこともない。それでも建設できたのは、プレハブ住宅の理想が証明されたといっても過言ではないでしょう。

このカボゴ基地の建設過程について、建築構法的なお話については、以下の本に所収の、権藤智之「アフリカに渡ったプレハブ住宅」をぜひお読みください。

建設班の日本人というのは、当時、京都大学大学院生だった片寄俊秀。西山夘三に師事した片寄氏は、銭湯で京大助手だった西川幸治に調査隊の話を知らされ発奮、アフリカ行きを志願しました。とはいえ、アフリカでの住宅建設は困難を極めます。

基地建設の予備調査のときには、カラゴ村の人を五、六人やとい、建築にかかるときは十人ほどやといきっていた。最初片寄は慣れていないので、どう人を使えばよいかわからない。日本から着きたてだから気が短い。村人の仕事ののろいのが気にさわって、かれは怒ってばかりいた。むこうの連中はあまり怒らない。
(今西錦司編『アフリカ大陸』1963年、pp.240-241)

現地で雇った人たちは、プレハブ住宅どころか、近代的な建設作業自体が未体験ゾーン。さらに勤労観も異なる。さらに、資材が白アリでやられたり、獲った魚の処理を誤り食中毒が大発生したりも。そのてんやわんやな顛末は、後に『ブワナ・トシの歌』(朝日新聞社、1963)として出版。さらに1965年には、渥美清主演、羽仁進監督により映画化されます。

ちなみに、本や映画のタイトルになった「ブワナ・トシの歌」というのは、カボゴ基地の落成式前夜祭にて、建設に従事した現地人イサラジャブが即興でつくった歌のこと。「ブワナ」とは「旦那」のこと。「俊(秀)旦那」という意味。

 アフリカへ日本人がたくさんやってきて
 そしてムユクへやってきた
 中にいたトシという男は
 若いけれども
 ああ
 なんてうるせえ奴なんだ
 トシの仕事ときたら
 ああ
 なんてうるせえ仕事なんだ
 トシという奴は
 なんともやっかいな奴なんだ
(片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』1963年、p.221)

もはや、ただの愚痴が歌になっただけなのですが、それまでのスレ違いに衝突、そして和解の物語を経ると感涙モノなのでした。無技能工でも、どこででも建てられるプレハブ住宅が想定通り建設可能であるためには、どのような条件が必要なのかかあぶりだされた物語としても読むことが可能。この海外での施工上の困難は、その後に大手ハウスメーカーが海外進出するにあたって苦渋をなめる展開に先駆けた経験といえます。

1970年代はじめ頃から、日本のハウスメーカーは海外進出を試みてきましたが、それはブワナ・トシさながらの苦労の連続でもありました。日本の住宅技術は優れてたものと認知されていても、それをそのまま現地に持ち込んでも受け入れられるとは限らない。性能の高さが敬遠されることもある。中国などだと、内装は仕上げずに分譲することが一般的など住文化が異なったりも(★7)。

紆余曲折を経て、日本とは全く異なる商品展開が主流。そしてウリであるはずの施工品質を担保する方策も悩ましい。技術を持った人材の確保が難しい上に、協力業者会のような仕組みがないので、現場ごとに毎回、職人を集めないといけない。移民労働者も多く、一定で均一な施工品質が保ちづらいといいます。

「よし、イディはフレーム組みの専門工に仕立ててやろう」
わたしは心にそう決めた。これからは仕事が複雑になるから、わたしは一人一人適性を判断して仕事を与えるようにせねばならないのだ。頭が鈍くて不器用なのは荷物運びと土工事専門にまわして置けばよいが、この複雑な組立ハウスを建てるには、融通のきく頭の持ち主が、少なくとも五人は必要なのである。
(片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』、1963年、pp.165-166)

ブワナ・トシは現地でスカウトした作業員それぞれの個性を見定めながら仕事を割り振っていきました。


アフリカ的段階

もうひとつ興味深いのは、現地の人々を見るトシ旦那の心境の変化です。

カラゴの村人たちに対するわたしの評価は、この二カ月間に大きく変化していた。これは評価の変化というよりも、むしろ、わたしの人生観あるいは人間観の成長と言うべきものだったのかもしれない。
(片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』1963年、p.196)

基地の建設作業を通して、現地のムゼー(老人、といっても三十代で老化している)とキジャナ(若者)の違いに気づきます。当初、ムゼーの知恵や技能を高く評価し、そうした気質をまったくといっていいほど継承していないがキジャナに失望していました。

ところが、ムゼーたちは、荷物運びや土工事、基礎工事の段階までは有能だったけれども、工具を使った作業になると、俄然、キジャナのほうが力を発揮したといいます。

ムゼーが持つ草木に対する知恵は、キジャナには全く継承されていない。そして、キジャナは「タバコをくれ、ペンをくれ、時計をくれ」とばかり言う。「物資飢餓症」だと蔑んで見ていたキジャナへの評価が覆されます。

彼らはチャチャチャやロックンロールに対すると同じほど強い好奇心と興味をもってレベルの使い方、サッシのはめ方などを聞き、熱心に作業してくれたのだった。
(片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』1963年、p.199)

「セキスイハウスA型」が販売開始されたのは、アフリカ大陸でたくさんの国が独立を果たした「アフリカの年」と名付けられる1960年。タンガニーカもその潮流のなかで「カボゴ基地=セキスイハウスA型」建設の1961年に、タンガニーカとして独立。翌年には共和制へと移行しました。その後も紆余曲折を経ていきます。強い好奇心と興味でもって、キジャナたちは独立後の荒波を乗り越えていったのでしょう。

アフリカでの調査を取り仕切った今西錦司隊長は著書『人類の祖先を探る:京大アフリカ調査隊の記録』にこんなことを書き留めています。

じつをいうと、欧米追随でいやというほど味けない目にあわされてきた日本人のわたしが、自然も人間もその生活様式もわたしたちとは異なった、アフリカの潜在力に期待したいのは、欧米文明とすっかり型のちがった、人類の新しい文明の創造ということなのでした。それにまたわたしは、欧米文明というものが、人類のつくりだした文明の、最高にして最終のものであることも思いたくはないのです。
(今西錦司『人類の祖先を探る』1965年、pp.16-17)

1960年代、すでにアフリカ大陸にも「非欧米地域の欧米化」「人類を一様化する文明」へと飲み込まれようとしていました。とっくにその波に飲み込まれてしまった日本人のひとりとして、今西隊長は「アフリカの潜在力」に未来の可能性を見たかったのでした。

この本はそうした(アフリカ)調査の結果を一般の人にわかっていただくことを目的としたものですが、わたしたち調査隊員一同は、アフリカの自然と人間の生気、その偉大な潜在力をも、読者のみなさんに感じていただけるよう望んでいます。
機械文明に毒され、一様化されていく現代の人類社会にとって、アフリカ大陸に残された原初的な潜在力こそが、人類再出発の契機となるような予感がするからです。
(今西錦司『人類の祖先を探る』1965年、p.4)

人類を一様化していく大波にアフリカ大陸がすっかり飲み込まれる前に、一様化の次にくる未来の可能性を探ろうとした調査隊。そんな歴史の一ページに、京都大学アフリカ類人猿学術調査隊の「カボゴ基地=セキスイハウスA型」はあるのでした。文明の実感的体験として。その体験の瞬間は、その場に居合わせた梅棹忠夫にとっても、心に刻まれる実感的体験でした。

 わたしはまえから聞いていた
 ムユクにはムズングの家がある、と
 いま、わたしはそれを見た
 いま、わたしはそれを見た

その後、梅棹忠夫は民俗学から未来学へとフィールドを移していきます★8。「日本にかえってから、アフリカのキャンプでの生活を思い出すと、わたしは、なにか夢を見ていたのではないか、とさえ思う」。梅棹は『サバンナの記録』の「あとがき」にそう記しています。彼は「女の叫び」に何を「見た」のでしょうか。


参考文献
・今西錦司『人類の祖先を探る:京大アフリカ調査隊の記録』、講談社、1965年
・今西錦司編『アフリカ大陸』、筑摩書房、1963年
・片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』、朝日新聞社、1963年
・梅棹忠夫『サバンナの記録』、朝日新聞社、1965年
・今西錦司・梅棹忠夫編『アフリカ社会の研究:京都大学アフリカ学術調査報告書』、西村書店、1968年
・積水ハウス社史編集室編『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』、積水ハウス、2010年
・野口均『逆境のリーダー・石橋信夫:大和ハウス工業創業者の壮絶人生と先見の経営』、ダイヤモンド社、2010年
・松村秀一ほか編『箱の産業:プレハブ住宅技術者たちの証言』、彰国社、2013年
・大和ハウス工業広報企画室企画アーカイブグループ編『大和ハウス工業の60年』、大和ハウス工業、2016年
・佐藤考一ほか『図表でわかる建築生産レファレンス』、彰国社、2017年
・新建築編『大和ハウス工業:建築設計の仕事』、新建築社、2018年


★1 この梅棹の印象的な文章を教えてくれたのは、Twitterでお世話になっている益子透@tmashikoさんです。折に触れて発想の種を提供くださりありがとうございます。
★2 図版出典は次のとおり。今西錦司・梅棹忠夫編『アフリカ社会の研究:京都大学アフリカ学術調査隊報告』、p.29。
★3 販売時は積水ハウスではなく、積水化学工業本社ハウス事業部だった。A型販売時にはそのほかの住宅商品がなかったため、商品名が「セキスイハウス」だった。後に積水ハウス産業へとして分離。さらに積水ハウスと社名変更して現在に至る。
★4 図版の出典は下記のとおり。『積水ハウス50年史:未来につながるアーカイブ1960-2010』、p.11。
★5 図版は大和ハウス工業「ミゼットハウス」チラシより。
★6 図版は片寄俊秀『ブワナ・トシの歌』より。
★7 ハウスメーカーの海外進出については、「日経ビジネス」(2015年2月23日号)の特集「ニッポンの家:進化したウサギ小屋、海を越える」を参照。また、佐藤考一ほか『図表でわかる建築生産レファレンス』(彰国社、2017年)所収の「Chapter7 建築生産の国際化」も参考になる。
★8 その後、梅棹忠夫は林雄二郎や小松左京らとともに、日本未来学会の設立や、日本万国博覧会のテーマ策定にがっつり取り組んでいくことになります。そして、万博会場跡地への国立民族学博物館建設へとつながっていきます。

関連過去note


(おわり)

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