竹内孝治|マイホームの文化史

元・住宅営業マン。住宅産業や住宅計画について教育したり、来歴について調べたり、書きもの…

竹内孝治|マイホームの文化史

元・住宅営業マン。住宅産業や住宅計画について教育したり、来歴について調べたり、書きものをしたり。現在『マイホームの文化史(仮)』執筆中。noteにはあれこれ思いついたり考えたりしたことを記録してます。

マガジン

  • 戦後教育のなかの「住宅」

    戦後、日本の再スタートにあたり、未来をになう人材の育成をめざして展開した生活単元学習。児童・生徒の生活に直結した「住宅」が社会や図工、さらには理科や数学でも登場しました。子どもたちが「住宅」を学んだ時代をさぐります。

  • 戦後日本の居住文化

    間取り集、家相本、日曜大工・・・。戦後日本の居住文化を紐解くことで、わたしたちにとっての住まいを再考します。

  • 住宅産業論ノート

    住宅産業やハウスメーカー、プレハブ住宅に関する過去・現在・未来を通して、これからの住まいを考える試みです。

  • 現代建築史ノート

    現代建築についてあれこれ思ったこと、考えたこと、調べたことをとりとめもなく雑多なままに書き出したノートたちです。

  • 子育て観察ノート

    子育ての観察、子育てがキッカケの観察、子育てする自分の観察などなど、娘あって気づいたことを記録します。

最近の記事

植田展大『「大衆魚」の誕生』から「マイホーム」の誕生を妄想する

待ちに待った新刊、植田展大『「大衆魚」の誕生:戦間期における水産物産業の形成と展開』(東京大学出版会、2024)。 全国で日常的に大量の水産物を消費するようになったその萌芽=大衆魚の誕生を戦間期にみる試みです。 ただ、そうした展開は当然とつぜん生まれたものではなく、その萌芽が戦間期にみられたという見立て。そこで本書は「日常的に水産物を消費する生活」を可能とした萌芽を、需要と供給の両面から明らかにします。戦後高度成長に連なる新たな消費生活の原型がそこに浮かび上がるというワク

    • 高度経済成長期の「受胎告知」|1961年「ナショナルテレビ・カタログ」を読む

      たまたまヤフヲクで手に入れた松下電器産業「ナショナルテレビ・カタログ」。1961年版のそれは、ポータブルタイプのものから、ステレオテレビ、カラーテレビなど各種商品が掲載されたものです。 その表紙にはテレビをはさんで男女がなんとも不自然なかっこうで写っていて、構図にこだわった絵画みたいだなと。ああ、そうだ、これはまさにバルテュスの「トランプ遊び」では中廊下と気がつきました。 松下電器産業のカタログは1961年。そしてバルテュスの「トランプ遊び」は1973年の制作です。 日

      • あたらしい「しきたり」|塩川弥栄子『冠婚葬祭入門』を読む

        戦後日本の住宅を再考するためには「新婚住宅」について調べなければ、という問題関心の一環(というか脱線)で「ブライダル」関連本のほか、最近すこし「冠婚葬祭」本にも守備範囲を広げています。 たとえばこれ。1970~71年にかけて光文社「カッパ・ホームス」シリーズから出版された『冠婚葬祭入門』正・続・続々3冊(1970-71)、さらに姉妹編『図解冠婚葬祭』(1971)は4冊合計700万部のベストセラーとなったのだそう。 著者の塩月弥栄子は裏千家14代家元・千宗室の長女。茶道研究

        • ぼくは王子様になったようだ|1960年代、プレハブ勉強部屋という「お城」

          ヤフヲクで入手した古雑誌をつれづれなるままにペラペラめくっていたら「永大の勉強部屋」(永大産業)の広告を発見してものぐるほしけれに。キャッチコピーは「ぼくは王子様になったようだ」(週刊サンケイ1966.12.26)。 大和ハウス工業の「ミゼットハウス」(1959)のヒットは、その後に類似商品乱立を招きます。この「永大の勉強部屋」(1960)もその一つ。 「ぼくは王子様になったようだ」という文字がおどるこの広告は、同社が開催した懸賞作文募集「僕たち私たちの勉強部屋」の最優秀

        植田展大『「大衆魚」の誕生』から「マイホーム」の誕生を妄想する

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        • 絵本読み聞かせノート
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        記事

          「建築家住宅」批判の語られ方|「家は建てたが…」座談会から小島信夫、山口瞳の家づくりまで

          建築家に依頼して自邸を建てた文化人たちが、いかにヒドイ家を建てられ憤慨しているかを語り合ったセンセーショナルな座談会「家は建てたが…:建築家にもの申す」が月刊「婦人朝日」(朝日新聞社)1956年2月号に掲載されました。発刊早々に話題となり、「藝術新潮」や「文藝春秋」など複数の雑誌をまたいだ論争状態へと展開していきました。 この論争のなかで紡がれた言葉の数々は、現在でも折に触れて話題になる「建築家が設計した家は住みづらい」とか「施主の住まいを自分の作品にしている」とか「有名建

          「建築家住宅」批判の語られ方|「家は建てたが…」座談会から小島信夫、山口瞳の家づくりまで

          「鳥羽の日」に思いをはせる円形ホテル「鳥羽観光センター」と戦後の「観光」

          10月8日は「木の日」であるとともに「鳥羽の日」です。 三重県の鳥羽といえば「鳥羽SF未来館」ですが、それに匹敵する名所(※独断と偏見によります)が円形の不思議なかたちをしたホテル「鳥羽観光センター」(現存せず)。 鳥羽がロケ地のドラマ「探偵物語」第21話「欲望の迷路」(1980年2月12日 放映)をあらためて視聴してみたら、松田優作と風吹ジュンの背後にチラリと「鳥羽観光センター」がみえます。あ、ぶらじる丸も。 古い伊勢志摩関連観光パンフや旅行雑誌・記事などをペラペラめ

          「鳥羽の日」に思いをはせる円形ホテル「鳥羽観光センター」と戦後の「観光」

          伊勢湾台風から64年|竹内芳太郎「海の中の干拓地」と小菅百寿『農村のブロック建築』を読む

          9月26日で伊勢湾台風から丸64年を迎えました。真珠筏を心配した祖父がこの台風で亡くなったことを、いまは亡き祖母から度々聞かされて育ったこともあって「いせわん台風」は特別な響きでもって記憶に残っています。 竹内芳太郎と鍋田干拓農村建築研究の大家・竹内芳太郎(同じ竹内姓ですが全く無関係)の米寿記念に編まれた『野のすまい』(ドメス出版、1986)には長短さまざまな文章が集められていて、そのうちの一つに「海の中の干拓地」という小文があります。 海を埋め立てた土地であるはずの「干

          伊勢湾台風から64年|竹内芳太郎「海の中の干拓地」と小菅百寿『農村のブロック建築』を読む

          救援物資にもなった組立家屋|キートンの短編映画「文化生活一週間」をみる

          里見弴の小説「極楽とんぼ」(1961)にこんな文章が登場します。 さらにこう続きます。 この「救援物資」とは、関東大震災で甚大な被害を受けた日本を支援すべくアメリカから贈られたもののこと。当時「レデーメードハウス」「出来合建築」などとも呼ばれていた「組立家屋」も「一番の大物」として注目されたそう。アメリカ製の「組立家屋」は「バンガロー式」と呼ばれる小住宅で、1920年代前半には日本へもちょいちょい移入されていました。その一例、神奈川の内藤彦一邸(1920)はシアトルにある

          救援物資にもなった組立家屋|キートンの短編映画「文化生活一週間」をみる

          『夢の新婚住宅をあなたも|戦後家族のつくられ方』【妄想企画メモ】

          たまたま名古屋松坂屋がたぶん1960年代後半に出してたと思われるカタログ『FOR YOUR Bridal』を手に入れました。タイトルのとおり、これから結婚式を挙げようとするふたり向け商品カタログです。というか正確には「ふたり」というより新婦となる女性向けの編集になっています。というのも最後のページにあとがき的に記された「きょうを大切に」という文章にこうあるので。 令和のいま読むとドキッとする「性別役割分担」節炸裂ですが、当時としてはむしろ姑のいる「家」に入るのではなく「新し

          『夢の新婚住宅をあなたも|戦後家族のつくられ方』【妄想企画メモ】

          「家庭」写真の写し方/近代「家族」のつくり方|1950年代写真マニュアル本を読む

          写真はまったくの門外漢で、スマホ撮影のみな日常ですが、ひょんなことから「家庭写真」本をコツコツ収集することに。その動機はというと至って月並みでドラマ「岸辺のアルバム」(1977年)から。「マイホーム」の歪みがクローズアップされた1970年代。水害が「夢」と「拘り」をあぶりだします。妻・則子が夫に投げつける叫び。「綺麗事のアルバムとこの家だけが大事なんだわ」。 綺麗事のアルバム1974年9月1日、台風16号にともなう豪雨によって多摩川が氾濫。狛江市周辺の堤防が決壊し、隣接する

          「家庭」写真の写し方/近代「家族」のつくり方|1950年代写真マニュアル本を読む

          「箸の日」に読みたい民俗学者・高取正男「生活の知恵」|ボクのお茶わん・ワタシのお箸

          8月4日は #箸の日 です。 1968年から69年にかけて朝日新聞に連載された「生活の知恵」には、その名も「箸」と題された第2回含め、日本人の箸への感覚と、その意識がもつ文脈をわかりやすく説かれています。書いたのは民俗学者・高取正男。 たとえば連載第1回目はこう説きはじめられます。「『ボクのお茶わん』『ワタシのお箸』などといって、茶わんと箸だけは、それぞれ個人用のものをきめている家庭は多い」。でも西洋料理や中華料理はそうではない、と。 なぜ、そんなことをしたのか?高取は

          「箸の日」に読みたい民俗学者・高取正男「生活の知恵」|ボクのお茶わん・ワタシのお箸

          文化国家の子どもたちへ|田辺平学の児童書『世界の家:21のナゾ』を読む

          1922年、東京帝大建築学科を卒業した若き建築学者・田辺平学は、同年9月、建築構造学の研究を深めるべくドイツ、イギリス、そしてアメリカへと2年間留学する機会を得ました。日本から遠く離れたドイツの地で田辺は後の人生を大きく変える2つの体験をしたと、後に著書『耐火建築』(資料社、1949年)に書き留めています。 ひとつ目の体験は、留学先でたまたま遭遇した火災現場でのこと。「火事だッ!」と叫び声が上がり、消防車が到着。無事鎮火に至るその一連の光景に田辺は衝撃を受けます。しかし、野

          文化国家の子どもたちへ|田辺平学の児童書『世界の家:21のナゾ』を読む

          あの家もやっとうだつが上がった|民法学者・中川善之助の「うだつ」を読む

          出世しないとか、お金に恵まれないなどの境遇を指して用いる慣用句「うだつが上がらない」。よく徳島県美馬市や岐阜県美濃市の古い街並みなどで有名な「卯建」を説明する際に言及されたりします。でも実際のところ、この「うだつが上がらない」で引き合いにだされる「うだつ」が何を指しているのかは諸説があるのだそう。 「うだつくん」的な防火壁&ステータスシンボルとしての「卯建」のほかにも、「梲(うだつ)が上がる」という言葉が「棟上げ」を意味することから、転じて「志を得る」意味になったとか、梁の

          あの家もやっとうだつが上がった|民法学者・中川善之助の「うだつ」を読む

          未来の働きものに贈る住居学|建築史家・藤島亥治郎の児童書を読む

          戦後の再出発にあたって「働きものの『みつばち』のように、勉強に励み立派な人間になる」、そんな理想を掲げた児童書シリーズ「みつばち文庫」が発行されました。 この「みつばち文庫」シリーズを読んだであろう子どもたちは、みつばちのように働き、日本の復興と発展を支えたことを思うと、なんとも感慨深いネーミングです。 そんな「みつばち文庫」の一冊に『今の家・昔の家』(みつばち文庫5、志村書店、1948年)があります。手がけたある建築史家が『今の家・昔の家』をはさんで生きた戦前・戦後につ

          未来の働きものに贈る住居学|建築史家・藤島亥治郎の児童書を読む

          『マイホームの練習|戦後経験主義教育と単元「住宅」』【妄想企画メモ】

          1950年代はじめ、悲惨な戦争を乗り越え、あたらしい日本社会を築く民主主義マインドを持った人材を育成するため、戦後新教育がスタートします。小学校や新しく設けられた中学校の各教育でも、民主主義に即した教育の展開が求められました。 そんな気運に乗って小中学校教育では、理科や社会、さらには数学や図画工作でも「住宅」を取り扱う単元が存在しました。いまでは、技術科や家庭科でお目にかかるくらいの「住宅」が、さまざまな教科で、しかも複数教科を横断して、あらゆる角度から児童・生徒自らの住環

          『マイホームの練習|戦後経験主義教育と単元「住宅」』【妄想企画メモ】

          妻と子どもと車と家と|1961年、山一證券連載広告にみる戦後日本の家族像

          山一證券が累積投資の個人会員(M.I.クラブ)向けに発行していた『月刊M.I.』(M.I.はマンスリー・インベスメントの略)。1961年の一年間を通して裏表紙には、毎号、会員を想定したある家族の夢を描きつつ、その実現へ向けた山一證券の連載広告が掲載されています。 この連載広告で描かれる夢は、少し背伸びしたものながらも、決して絵に描いた餅ではない絶妙なもの。特に1960年代は株式投資が好調となる時期でもあり、なんだかんだ早く実現してしまうかもと思えるものでした。 そんな設定

          妻と子どもと車と家と|1961年、山一證券連載広告にみる戦後日本の家族像