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バーバパパは「はいまわった」のか?|戦後新教育と楽しい学びあい

そうだ、あたらしい がっこうを つくりましょうよ。こどもたちに ぴったりの たのしい やりかたで、べんきょうを おしえるような がっこうを。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

娘(小2)が通う学校も休校延長が決定しました。引き続き自宅での学習がつづきます。保育園児の妹も一緒に過ごす空間のなかで、在宅勤務の自分がほどこす教育もなかなか限界が。センチメートルとミリメートルの問題は、理解しては忘れての繰り返し。ただ、自分ひとりでご飯を炊けるようになりました。「生活即教育」といえば聞こえがいいかな。

学校であれば、勉強に適した空間と什器があって、教え励ましてくれる先生がいて、わからないとき真似る対象でもある同級生がいて、バランスのとれた給食があって、適度に体を動かす体育や行事があって。そんな当たり前だった学校の役割を痛感し、代替するために必要なコストに愕然とする日々です。

自宅学習を続ける娘をみていると、トレンド的には乗り越えるべき対象とされる「画一的・一斉型」の教育も、これはこれで大きな役割と効果があるなぁ、と思い直しました。そんなことをモヤモヤと考えた一日の夜。次女が読み聞かせでオーダーしてきた絵本が『バーバパパのがっこう』。常に個性的で楽しく生きることを求めるバーバパパが教育に参画するお話です。

バーバパパ学校の誕生

バーバパパ・シリーズの一冊『バーバパパのがっこう』(講談社、1976)。ピカピカの1年生である近所の双子に付き添ってバーバパパたちは学校を訪れます。ところがその学校はドラマ「スクール・ウォーズ」のオープニングさながらの学級崩壊真っ只中。大暴れする児童、逃げ出す先生、市長や警察も介入する事態に。そんな最悪な事態を好転させるバーバパパ一家の秘策とは、というお話。

バーバパパ一家は、児童ひとりひとりの好きなことを見出していきます。

「いたずらっこどもは、おんがくが すきらしいね。ほら、バーバララとバーバブラボーの おんがくを、よろこんで きいて いる。」バーバパパは、そう きづきました。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

たしかに、子どもたちは、それぞれ音楽、動物、機械などが好きなよう。でも、大人たちはこう言います。

「こどもは、びしびし しつける ことが かんじんだ。」
おやたちが、くちを そろえて いいました。
「そうだ、その とおりだ。」
おまわりさんも いいました。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

バーバパパは言います。「こどもは楽しみながら勉強させてやらなくっちゃいけません」「自分の大好きなことを勉強するのなら、きっと喜んでやりますよ」と。

この場面で、騒動を見に来た市長さんの発言が興味深い。彼は言います。「わかっとるんじゃ。うちの坊主どもは機械のことを習えばご機嫌じゃろうが、わしはこいつらを将来、市長にさせたいんじゃ」と。「学習」と「ご機嫌」は結びつける必要がないもの。子どもの学習は親の希望に従属するもの。そんな教育観を体現する人物として、市長が描かれています。

さて、とはいえこの大混乱。大人たちは半信半疑ながら子どもたちをバーバパパ一家に託すことに。「バーバパパ学校」の開校です。

そもそもバーバパパ一家を構成するパパ、ママ、5人の子どもたちが、それぞれにユニークな特技の持ち主。毎回のお話は、そんな特技と個性を発揮してトラブルを切り抜けるお話でした。

先生役となった一家は、これまで同様に、自分の特技を活かしつつ、自分の体を変形させつつ、教育に臨みます。

学校の敷地内では、ダンス、建築、工作、農業、電気、農耕、自然観察、図工、陶芸、体操、国語などなど多種多様な活動が展開されていきます。大人たちはびっくりします。「バーバパパの学校は大成功だ!」。

さて、この学校、結局、子どもたちは遊んでるだけじゃないの?と疑問をもたれるかもしれません。でも、お話の終盤で登場する「国語」と「算数」のシーンで、そうではないことがわかります。自分たちの好きなことを見出し、存分に活動した上で、生徒たちは皆で「国語」や「算数」を学ぶのです。学ぶための姿勢が醸成されていることに驚きます。

とはいえ授業はユニーク。文学少女バーバリブが担当する「国語」には決まった教科書がありません。自分が好きな本を選べます。「算数」には学校を逃げ出した先生が現場復帰して教えています。以前と違うのは「楽しく教える」ことを重視すること。体を動かしながら算数ゲームに取り組み、数え方の練習です。

物語の最後は1年の締めくくりにお祝い会。学んだことをお披露目して、ご褒美もゲット。物語はこう締めくくられます。

こどもたちは、がっこうで、たくさんのいろんな ことを べんきょうしました。だけど、なによりも すばらしいのは、みんなみんな、たのしく しあわせに やって いると いう ことです。
(チゾン+テイラー『バーバパパのがっこう』1976年)

この物語には、苫野一徳『教育の力』でも説かれる「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」が活き活きと描かれています。

学びのあり方も進度も、興味・関心も人それぞれ異なっています。その意味で、画一的・一斉型の学びは、実は非常に効率の悪いものなのです。それゆえわたしたちは、学びをまず徹底的にカスタマイズする必要があります。
しかしそれだけでは全く十分ではありません。わたしたちはこれに、子どもたちの知恵や思考を持ち寄る「協同的な学び」と、それぞれの子どもたちが自らの目的を持って挑戦する「プロジェクト型の学び」を融合する必要があります。学びの「個別化」と「協同化」と「プロジェクト化」は、三つで一体となった学びのあり方なのです。
(苫野一徳『教育の力』2014年)

「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」に思いをはせると、一斉授業による管理教育が学級崩壊を起こしていた冒頭シーンは、その対比として描かれたものでもあるのだと得心します。そういえば、絵本『バーバパパ』の第一作目発表は1970年でした。1960年代末のパリの町で作者のアネット・チゾンとテラス・テイラーは変幻自在な妖精「バーバパパ」の物語を着想します。

1960年代末のパリで。つまりは、パリ大学ナンテール校に端を発したパリ五月革命(1968年)の空気のなかで物語の下地が練られたであろうことを思うと、あらゆるものに「異議申し立て(コンテスタシオン)」がなされた当時の雰囲気を、冒頭の学級崩壊に見出すこともできなくもない。児童自身がありたいようにあり、学びたいように学び、生きたいように生きる。自分の息子も市長にさせたい「市長」は、まさに「異議申し立て」されるべき対象として登場しています。

経験主義の「学習指導要領」

この「バーバパパ学校」での授業シーンを眺めていると、戦後日本の教育改革でも採用され大々的に展開された「生活単元学習」や「コア・カリキュラム」を連想せずにはいられません。

まず、戦後新教育の方向性を示した「新教育指針」(1946年)。第一部後編第一章に掲げられた「個性尊重の教育」をためしに抜き出してみます。

一、教育は何ゆえ個性の完成を目的とするか
(1)個性の完成は、人生の目的にかなった幸福なものとする。
(2)個性の完成は、社会の連帯性を強め協同生活をうながす。
(3)個性の完成は、社会の進歩をうながす。
二、教育方法において、個性を尊重するにはどうすればよいか
(1)生徒の自己表現を重んずること。
(2)生徒の個性を調べること。
(3)教材の性質や分量を個性に合わせるように工夫すること。
(4)学習及び生活訓練において個性を重んずること。
(5)進学や就職の指導に個性を重んずること。
(文部省「新教育指針」1946年)

学級崩壊した学校で、最初にバーバパパたちがやったのは「生徒の個性を調べること」でした。バーバララの国語の授業では「教材の性質や分量を個性に合わせる」ことが実践されていました。

この「新教育指針」に沿って、翌1947年に戦後最初の「学習指導要領」が示されます。『学習指導要領・一般編(試案)』です(1948年に修正発行)。同書では、冒頭にその意義をこう語りかけます。

この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手びきとして書かれたものである。
(文部省『学習指導要領・一般編(試案)』1947年)

1951年にはさらにその改訂版が出されました。これら二つの「学習指導要領」は、後に「経験主義の学習指導要領」と呼ばれるようになります。児童・生徒の生活を豊かにするために教育を計画する「生活経験主義」の教育課程。「戦前のように国家ではなく児童の側から編成する」という原則が貫かれています。

これまでの修身・公民・地理・歴史の教科を融合した「社会科」、女子限定の家事科から男女ともに学ぶ「家庭科」、そして「児童の個性によっては、その活動が次の活動を生んで、一定の学習時間では、その活動の要求を満足させることができないような場合」に対応した「自由研究」が設けられました。「学習指導要領」にはこうあります。

たとえば、鉛筆やペンで文字の書き方を習っている児童のなかに、毛筆で文字を書くことに興味を持ち、これを学びたい児童があったとすれば、そういう児童には自由研究として書道を学ばせ、教師が特に書道ついて指導するようにしたい。つまり、児童の個性の赴くところに従って、それを伸ばして行くことに、この時間を用いて行きたいのである。
(文部省『学習指導要領・一般編(試案)』1947年)

なんかもう「バーバパパ学校」ですよね。この「自由研究」は1951年の改訂で「教科以外の活動」と名称変更されます。特定学年・特定教科をはなれた活動は、クラブ活動や児童会のルーツになりました。こうした学習・活動を経て育まれるのが、民主主義への感度。

戦後改革では、民主主義社会における市民像の育成が目的とされました。その市民は民主主義社会を担うことができる知識とスキルを持ち、たえず社会の民主化に向けて前進する人であることが理想とされたのでした。
(水原克敏ほか『新訂・学習指導要領は国民形成の設計書』2018年)

この「民主主義と教育」の理念は、その延長線上に、アメリカの哲学者ジョン・デューイへの共感と誤解が刻印されているのですが、話が逸れすぎるので割愛します。ご関心をお持ちの方は下記の本がわかりやすいです。

戦後新教育の「楽しい学習」

戦後新教育の一場面として、線路と街の模型で児童たちが思い思いに「学ぶ」教室風景の写真やイラストがあります。こちらは小学校三年生の『町のくらしと村のくらし』(二葉、1951年)に登場する「私たちの郷土」の授業。自分たちが住んでいる町の模型をつくっています。

町のくらしと村のくらし表紙絵

図1 町の模型づくり

「戦後新教育の花形」と呼ばれた社会科の一場面。新教科・社会科成立の舞台となった東京の桜田小学校では、1947年1月26日、「本当に社会科なる授業が成立できるのかどうかを確認する実験授業「郵便ごっこ」が実施されました。「郵便ごっこ」とは。

子どもたちが数人単位に分かれる。そのうちの一つのグループが、日下部先生の店に買い物に行く。「はがきと切手を下さい。百円でおつりは……」。算数の勉強である。引き返して田舎の友達に手紙を書く。これが国語。手紙は町内の郵便局から中央郵便局を経て、汽車の役割の子供に運ばれて田舎の郵便局に着く。郵便屋さんから手紙を受け取った友達が返事を書く。そして逆の手順で、また東京へ。
(読売新聞戦後史班『教育のあゆみ』1982年)

実験授業を見学した文部省教科書局の重松鷹泰は成功を確信したといいます。以後、「ごっこ学習」は社会科授業の定番メニューになります。「なすことによって学ぶ」という考えを体現した授業として。

社会科授業は以後、各地で改良が加えられていきます。東京・業平小学校での学習風景をとらえた写真は、当時の教育雑誌に「元気な先生と子どもたちが手をつなぎ、力をあわせ楽しい学習に余念がない」とキャプションを付されて掲載されたといいます。「楽しい学習」。

「バーバパパ学校」と同じ「楽しい学習」がそこにはある。カリキュラムに生活経験を取り入れる「生活単元学習」は児童生徒にとっての日常生活を教材に各教科を学びました。その傾向をさらに先鋭化させた「コア・カリキュラム」では、教育学者・梅根悟のリーダーシップのもと、「生活教育」と称して社会科を教科の一つではなく「生活」そのもの、「社会科とか理科とかいうような一つの教科ではなくて、超教科的なそして包括的綜合的な生活経験」としました。

児童・生徒の日常での生活経験を軸にして、科目の垣根を越えて学ぶ。しかも楽しみながら。先生は教壇に立って一方的に教える権威ではなく、児童たちの学びをサポートする役割。

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図2 児童のディスカッションを見守る先生

新教育批判=はいまわる経験主義

しかしながら、この理想的な教育のあり方、「バーバパパ学校」的学びのスタイルは、後に批判にさらされていくことになります。なぜでしょうか。まずは学力低下が問題視されます。

日本教育学会や国立教育研究所が行った調査研究において、児童生徒の「読・書・算」(3R'S)の能力が低下している実態が報告されると、いわゆる「基礎学力論争」が激しく展開され、「新教育」が議論の争点となっていった。
(貝塚茂樹『戦後日本教育史』2018年)

この学力低下問題については、そもそも調査・比較の仕方がフェアではなかったことがわかっています。ただ、当時、そうしたデータをもとに新教育を批判することが妥当と思われる空気があったのは、動かしがたい事実だったのでしょう。

そして、学力低下への懸念は、新教育をバックアップしたGHQの占領が終了したことも影響して、新教育を下支えした教育のあり方自体への批判へと展開していきます。

新教育に対する批判のポイントは、大きく子どもの自発性に基づいて教育活動を組織することには限界があること、また子どもの生活経験に基づく「生活単元」には体系性が欠けている点に向けられた。なかでも、コア・カリキュラムに対しては、教科学習で習得すべき知識と子どもの経験との結合を不問にし、ただ経験させるだけの「はいまわる経験主義」に陥っていると批判された。
(山田恵吾『日本の教育文化史を学ぶ』2014年)

数ある批判のなかで最も有名なフレーズ「はいまわる経験主義」。教育学者・矢川徳光は、梅根たちの活動を批判しながら、こう書きます。

社会生活の経験をいく十年間かさねてみても、ただそれだけでは、梅根氏の言うように、社会生活に対する批判力や理解力がえられるものではない。自然現象であっても、その現象の事実をいくらたびたび経験してみても、いくら種類を多く経験してみても、自然現象の理解や批判に到達することはない。
(矢川徳光『新教育への批判』1950年)

矢川はこう指摘しつつ、哲学者・戸坂潤の『科学論』を引用してこう指摘していきます。

経験カリキュラムによる教育は自然成長的・社会的成形であり、個人主義的自由教育である。この「経験」は個人個人の経験であって、それ以上のものではない。これは全く「はいまわる」経験主義であり、「独我論的な意味における経験でしかありえない」(戸坂氏)。
(矢川徳光『新教育への批判』1950年)

「はいまわる経験主義」、あるいは「活動あって学習なし」といった言葉は反・新教育のスローガンとなり、経験主義のカリムラムは系統主義のそれへと転換することになります。

たしかに戦前までの一律画一的・一方的な教育から、児童・生徒が主体になって学ぶ教育への大転換は現場の混乱も引き起こしました。教科書や設備どころか教室すら十分に確保されず、教員自身が食べるものに苦労する状況。十分な教育を施す地盤がすでに抜けている。そんななか、新教育の理念を盛り込んだ文部省著作教科書には、教師たちへ向けてこんな指示が発せられます。

この本は、児童たちに、社会科学習の手がかりとなる若干の資料を与え、合わせてその学習のしかたを暗示している。その資料は、第六学年の児童に、ぜひ与えなくてはならない知識を精選して排列したものではない。(中略)だから従来の教科書と同じように考えてはいけない。むしろ児童用の参考書の一種として取り扱っていただきたい。
(文部省『土地と人間』1947年)

教科書は参考書として使いなさい。くれぐれもこの教科書の内容を暗記させたり最初から順に教えてはいけません。それは混乱するでしょう。当時の教師たちのボヤキも多く残されています。

新教育は文部省が決めて押しつけるべきものではなく、教師みずから考え、話し合い、判断すべきものであると教えられても、教師たちは顔を見合わせてとほうにくれるばかりであった。新教育の花形、コア・カリキュラム運動がはなばなしく展開された陰で、大多数の教師は自分に与えられたカリキュラム構成の自由をもてあまし、右往左往したすえ、結局は学習指導要領の手引書にたよってお茶をにごすのが実情であった。
(市川昭午「国民教育の成長と占領の『終結』」1975年)

小針誠『アクティブラーニング』には、教師にとっても手をこまねいた戦後新教育の状況をいくつか紹介しています。また、同書にも引用されていますが、評論家・西尾幹二(1935年-)は茨城師範付属中で、実際に「コア・カリキュラム」による教育を受け、ぶった斬りしています(『わたしの昭和史1・2:少年篇』、新潮社、1998年)。

教育界で流行語になった「ガイダンス」や「コア・カリキュラム」も、現場の教師たちの理解度はさまざまで、なかには「ガイダンスの講習会にダンスシューズを持参した」とか「コア・カリキュラムをココアキャラメルと勘違いした」みたいな「ネタですか?」なエピソードも残っています。

はいまわるバーバパパ

さあ、「バーバパパ学校」はその後どうなったのでしょう。180度転換したカリキュラムは持続したのでしょうか。少なくとも、バーバパパ一家は、以後、学校運営に関与した形跡はありません。

フラッグシップシリーズ・全10冊(出版年:原著/日本語版)
おばけのバーバパパ、1970/1972
バーバパパたびにでる、1971/1975
バーバパパのいえさがし、1971/1975
バーバパパのはこぶね、1971/1975
バーバパパのがっこう、1976/1976
バーバパパのだいサーカス、1978/1979
バーバパパのプレゼント、1982/1982
バーバパパのしまづくり、1991/1992
バーバパパのなつやすみ、1994/1995
バーバパパかせいへいく、2005/2005

系統性の薄いバーバパパたちの教育は学力低下をもたらしたりしなかったのでしょうか。はたして、バーバパパ学校の児童と教師たちは「はいまわった」のでしょうか。気になるところです。

戦後新教育で学んだ数学者・上野健爾の「生活単元学習」評価を聞いた、同じく数学者の新井紀子はこう記しています。

生活単元学習が、なぜ後に「教え込み」「習得主義」と批判される内容に“退行”したのだろう。その答えは、その当時の教育を受けた数学者の上野健爾先生に教えていただいた。自分は生活単元学習が楽しく、多いに学んだ。一方で、基礎基本が身についていない生徒にとっては何が正しく、何を目指して考えればよいかがわからず、格差が広がった、と。
(新井紀子「教科書から学ぶ」2019年)

実際、こんな場面も初期社会科教育の現場ではみられたそう。

教室内や学習グループ内またはそれぞれの児童・生徒間には、埋めがたい学力や学習に対する意欲・態度の格差がありました。活発で意欲的なグループや個人は、積極的に学ぶことができたものの、他方で、どんな課題のときでも、つねにグラフを描くだけ、色をぬる作業だけを分担する児童や生徒もいました。
(小針誠『アクティブラーニング』2018年)

グラフを描くだけ、色をぬる作業だけを分担する児童・生徒は不満だったか。たぶんそうじゃないだろうと思えます。むしろ主体的に学ぶよりも、そうした作業に安住の地を見出した可能性もあります。児童主体の教育は、それに乗っかれる層とそうでない層のあいだに、深刻な格差をもたらす。これは「ゆとり教育」でも問題になったのを思い出します。

哲学者・芦田宏直は「〈身分〉や〈格差〉と関係なく、1+1=2ということを教える場所が〈学校〉」といいます。そしてこう続けます。

〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が公共的に条件づけられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員公共資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。学ぶ主体を〈生涯学習〉的な視点から認めてしまうと、結局のところ、自動詞的な〈学び〉が前面化する学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化する。言い換えれば、何か〈を〉学ぶという対象への集中よりは、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在することになる。世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。
(中略)
〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉にすぎない。〈学校教育〉に、「上から」の「権力」が存在するとすれば、この親や地域の影響という地上性を払拭するためのものであるからに違いない。
(芦田宏直「学校教育と生涯学習と家族と」2013年)

これは「バーバパパ学校」の特質を別の角度から表現したものといえるでしょう。「〈私〉の自己表現の手段」と見なされた世界。上野健爾の言う「格差」が生まれた構図が語られています。

さて、教えていた側にとってはどうでしょう。教育者・堀山欽哉はコア・カリキュラムの定番メニューだった「ごっこ学習」の一つ、「マーケットごっこ」での混乱ぶりについてこう回想しています。

「なにしろ、僕としては魚の流通が教えたいと思っているだろ。ところが薬屋になっている鈴木なんてのが、おとうさんが病気なもんだから、病気のことばかり質問しはじめる。八百屋になったこどもは、また別の質問をする、といったようにバラバラになっちゃってね……」
(河内紀『ベニヤの学校』1976年)

なるほど、そうなるか。教育トレンドへの意識も高く、授業の企画力も持っていた堀山欽哉ですらその惨状と思うと、全国津々浦々の学校ではどうであったのか。推して知るべしたスタローンでしょう。

「生活単元学習」批判を、社会科教育を介して展開した矢川とは別に、算数・数学科を舞台に行った代表格が数学者・遠山啓。「生活単元学習」は算数や数学にも進出し、当時の教科書をみると社会科のような内容で驚きます。そのあたりの経緯は以前、こちらのnoteにも書きました。

遠山は、当時の時代背景のなかで「生活単元学習」が登場した経緯について一定の評価を下しつつ、次のように欠点を指摘しています。

子供たちをすべて従順な兵士に仕上げることを目的とした過去の軍国主義の教育は、子供の自発性を尊重するどころか、そのようなものを双葉のうちに摘みとることを目ざしていた。これは隠れもない事実であった。“生活単元”は、このような軍国主義教育を否定し、子供の自発性を王座にすえ、詰め込みを排斥する点で、確かにすぐれた一面を持っていた。子供は自発的に活動できるので、思うがままに個性をのばすことができる。子供の興味を中心に学習するので、子供たちは無理なく、おもしろく学習できる。
(中略)
アメリカ式“新教育”のもっている一つの大きな欠点は、教育をキレイ事だと考えて、模倣とか練習とかいう、地味ではあるが、教育にとって不可欠で困難な基礎工事を軽蔑する空気を教育者の間に吹き込んだ点にあると思う。
(遠山啓「練習と興味」、1953年)

模倣や練習、系統性を特に重んじるであろう数学教育の現場にいた遠山は、「生活単元学習」の持つ「欠点」を看過するわけにはいきませんでした。積極的な活動の結果、1958年の「学習指導要領」改訂では、経験主義的教育は一掃されることになります。

その時代ごとの教育の在り方に応じて「学校」は形をなしたもの。重要なのはそんな教育に求められる学びや学び合いを楽しむ場と仕組みをどうやって組み立てるのかが問われる。そんなメッセージを『バーバパパのがっこう』から読み取ることもできるでしょう。それぞれのカリキュラムに適したサポートの在り方があって、そのサポートの在り方を間違うといけない。

いま、否が応でもオンライン学習へと切り替えないといけない事態に、わたしたちは直面しています。遠隔授業は必然的に学びの「個別化」を促しますが、だからこそ「協同化」への配慮が強く求められます。「プロジェクト化」の仕掛けが「協同化」をもたらすこともあるでしょう。

オンライン授業があたりまえとなったら、教え方が上手な先生の一人勝ち。みんなはその先生の授業を受ければいいし、そうじゃない先生は必要なくなる。そんな話が聞かれたりします。

バーバパパ学校で魅惑的な教育を展開するバーバパパ一家の姿は、カリスマ教育ユーチューバーになりうるのか。たぶん、そうではありません。バーバパパ学校が示唆するのは、児童・生徒の側から編成された教育のあり方。教師は教え上手も必要ですが、サポート上手こそ求められるのですから。それは「教育にとって不可欠で困難な基礎工事」(遠山啓)であっても同様でしょう。そして、さらに何が必要となってくるのか。そのヒントを得るためにも「バーバパパ学校は、その後『はいまわった』のかどうか」を問わなければいけない。そう思います。

(おわり)

参考文献
・仲新『日本現代教育史:教育学叢書1』第一法規出版、1969年
・矢川徳光『矢川徳光教育学著作集3新教育への批判・日本教育の危機』青木書店、1973年
・土屋忠雄ほか編『近代教育史:教育学全集(増補版)3』小学館、1975年
・河内紀『ベニヤの学校:戦後教育を掘る』晶文社、1976年
・遠山啓『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ第2巻:数学教育の潮流』太郎次郎社、1980年
・読売新聞戦後史班『教育のあゆみ:昭和戦後史』読売新聞社、1982年
・杉浦宏編『日本の戦後教育とデューイ』世界思想社、1998年
・西尾幹二『わたしの昭和史1・2-少年篇-』新潮社、1998年
・海後宗臣ほか『教科書でみる近現代日本の教育』東京書籍、1999年
・金馬国晴「『はいまわらない』経験主義はありえたか:コア・カリキュラムの全体構造における〈単元〉と知識・技能の関係を手がかりに」日本教育方法学会紀要「教育方法学研究」第29号、2003年
・苅谷剛彦ほか編『学力の社会学:調査が示す学力の変化と学習の課題』岩波書店、2004年
・芦田宏直『努力する人間になってはいけない:学校と仕事と社会の新人論』ロゼッタストーン、2013年
・苫野一徳『教育の力』講談社、2014年
・山田恵吾『日本の教育文化史を学ぶ』ミネルヴァ書房、2014年
・田中耕治編『戦後日本教育方法論史・上:カリキュラムと授業をめぐる理論的系譜』ミネルヴァ書房、2017年
・田中耕治編『戦後日本教育方法論史・下:各教科・領域等における理論と実践』ミネルヴァ書房、2017年
・友兼清治『遠山啓:行動する数楽者の思想と仕事』太郎次郎社エディタス、2017年
・水原克敏ほか『新訂・学習指導要領は国民形成の設計書:その能力観と人間像の歴史的変遷』東北大学出版会、2018年
・貝塚茂樹『戦後日本教育史』放送大学教育振興会、2018年
・小針誠『アクティブラーニング:学校教育の理想と現実』講談社、2018年
・新井紀子「教科書から学ぶ」教室の窓、東京書籍、2019年1月
・中野光『梅根悟:その生涯としごと』新評論、2019年

図版出典
トップ 新教育実践研究所社会科委員会編『しゃかいかワークブック:三年用上』二葉、1951年
図1 同前
図2 文部省『中学生の数学:第一学年用(1)』文部省、1949年

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