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太平洋戦争はこうしてはじまった

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現在の日本は「新しい戦前」ともいわれています。ただ、戦争は突然はじまるわけではありません。そこには必ず原因と目的があり、その目的を遂行するための人の考えや動きがあるのです。日本に… もっと読む
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記事一覧

太平洋戦争はこうしてはじまった65

そして日米戦ははじまった  日本が開戦を決定した一方、米英もそれぞれの戦争準備をつづけて…

太平洋戦争はこうしてはじまった64

昭和天皇の開戦裁下  1941年11月29日、昭和天皇と首相経験者による昼食会が開かれた。開戦に…

太平洋戦争はこうしてはじまった63

国内を一致団結させたハル・ノート  実は、コーデル・ハル国務長官は「暫定協定案」という別…

太平洋戦争はこうしてはじまった62

米国国務長官が提案したハル・ノート  日本の開戦準備が完了しつつあった裏で、日米交渉も…

太平洋戦争はこうしてはじまった61

軍と政府が一体となった開戦準備  1941年後半の日本陸海軍は、資源不足による交戦力の低下と…

太平洋戦争はこうしてはじまった60

日米交渉の甲案と乙案  新帝国国策要領の議論がまとまると、連絡会議は日米交渉案の協議に入…

太平洋戦争はこうしてはじまった59

日米開戦が確定的となった新帝国国策遂行要領  首相となった東条英機は、昭和天皇の意思に従い国策の再検討に入った。組閣に際しては特例で自身を大将に昇進させ、陸軍大臣と内務大臣を兼任。これは政治と統帥権の一体化を目指しただけでなく、日米交渉がアメリカ有利に終わった場合に想定される軍民暴動への備えでもあったという。また外相には和平推進派の東郷重徳、大蔵相にも同じく和平派の賀屋興宣を据え、和平前提のかじ取りを試みようとしていた。  ただ、アメリカ首脳部は東条政権に否定的だったようだ

太平洋戦争はこうしてはじまった58

東条英機内閣の発足  日米首脳会談構想の破綻で、日本海軍首脳部は1941年10月6日に海相官…

太平洋戦争はこうしてはじまった57

日米首脳会談構想の破綻  経済制裁を科された大日本帝国に、残された道は2つ。アメリカの要…

太平洋戦争はこうしてはじまった56

経済制裁への温度差  日本は、南進による米英の武力行使はないと踏んでいた。しかし財産凍結…

太平洋戦争はこうしてはじまった55

日米交渉の失敗に繋がる南部仏印進駐  日本軍の南方進出は早期に検討されていて、1940年7月…

太平洋戦争はこうしてはじまった54

独ソ開戦にともなう南進論と北進論  内閣で松岡外しが本格化していた1941年6月22日、ドイツ…

太平洋戦争はこうしてはじまった53

松岡外相による対米外交への反発  日米諒解案は試案、つまり日米要人双方の議論で調整され…

太平洋戦争はこうしてはじまった52

アメリカの反発と日米諒解案  日独伊の急接近と日本の全体主義化は、当然ながらアメリカの警戒心を強めた。この態度をさらに強固にさせたのが、日本陸軍の北部仏印進駐だ。事の発端は1940年9月23日、日本陸軍が北部仏印(現ベトナム北部)への武力進駐を決行したことにある。  三国同盟の調整が進むかたわらで、松岡洋石外相は駐日フランス大使シャルル・アンリと日本軍の仏印駐留協定を結んでいた。当時の仏印は米英が中国に支援物資を送るルートでもあったので、兵力を駐屯させて支援を遮断するためだ