太平洋戦争はこうして始まった②

大正デモクラシーにおける民本主義の興隆

 第一次護憲運動の成功で、立憲運動の熱は全国へとひろまった。しかし社会運動そのものは、明治時代からはじまってはいたのだ。
 明治時代後期の産業革命到来で、都市部では労働問題が深刻化。さらに日露戦争の増税で貧困は加速し、これらに対する民衆の抵抗運動も頻発している。地方においても、秋田県の地主・安藤和国が「(現市政は)立憲思想に背いている」と批判したように、すでに立憲・民主主義を望む政治風潮は盛り上がりつつあったのだ。
 大正デモクラシーは、そうした流れの集大成だといえる。
 大正時代と明治時代が異なるのは、第一次世界大戦後の好景気で富裕層が増加し、定期収入の得られるサラリーマンや知識人が増えたことだ。余裕と知識を獲得した人たちは、それまでの「お上にしたがう」という考えを持たず、自分たちの力で社会を正そうとする思想を持つ。
 そこには、ソ連などにおけるプロレタリア革命の成功も影響している。さらに都市部の人口増加で新しい文化が花開き、享楽的な嗜好が高まると同時に軍人を「むだ飯食い」とないがしろにする風潮もあった。
 山本内閣の倒閣後、主要新聞や雑誌はこぞって民主政治の拡充を主張。寺内正毅内閣の成立時にも「ビリケン(非立憲)内閣」と批判し、雑誌『第三帝国』では普通選挙の実施が提唱された。こうした運動で作られたスローガンが「民本主義」。最初に唱えたのは記者の茅原華山だが、意味を定義したのは政治学者の吉野作造である。
 国民主権を是とする民主主義に対し、民本主義は政府の活動目的を国民の利益第一にしつつ、政策決定も一般国民の意向にもとづくべきとした。この論理には、「天皇機関説」が強く影響している。
 天皇機関説とは、東京帝国大学(現東京大学)の教授で憲法学者の美濃部達吉が1912年に提唱したものだ。天皇を国家の最高機関としつつも、統治権は政府が握るとする。これによって、天皇主権下での民主主義を実現しようとしたのである。
 こうした政治改革だけでなく、教育改革、差別撤廃、女性の地位向上運動も大正デモクラシーの一部にされることがある。まさに大正の前中期は、戦前で最も民主的な時代だったといえよう。
 そんな自由主義運動が、なぜ太平洋戦争の引き金のひとつとされるのか? 理由は帝国主義を全否定していないことにある。「内に立憲、外に帝国」というように、経済による帝国主義的進出は肯定されていたのだ。
 さらに、政治が民意の高まりを無視できなくなったこともある。日露戦争講和のように、政府は民衆の反対を押し切る政策は取りにくくなり、支持があれば誤った政策でも行わざるを得なくなる。この「国民の暴走と民意の悪用」、いわゆるポピュリズム(大衆迎合主義)の問題は、現代にも通じているのかもしれない。

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