武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑳

米国世論を一変させたスローガンの魔力

参戦の口実を探っていたアメリカ政府

 アメリカ・ハワイの現地時刻1941年12月7日午前7時55分。日本海軍機動部隊は真珠湾で奇襲攻撃を決行する。想定外の事態を招いたアメリカ太平洋艦隊は、第一次攻撃隊183機の攻撃にまったく対応が追いつかなかった。つづく第二次攻撃隊167機の強襲にもなすすべがなく、戦艦5隻を失い戦争序盤の主導権は日本に握られることになる。
 世界初の航空機による戦艦撃沈を成したこの作戦は、戦術的には日本の大勝利であった。しかし政治的には失敗だったといえる。なぜなら現地大使館の不手際で宣戦布告が遅れ、正式な開戦前の攻撃となってしまったからだ。このことは戦史の汚点となると同時に、アメリカに格好のプロパガンダ材料をあたえることになってしまった。
 じつは、開戦前のアメリカ世論は大戦への参加に否定的だった。当時の基本外交方針は「モンロー主義」。これはヨーロッパへの不干渉を旨とし、多国間戦争への参加を否定する孤立主義のことである。第5代ジェームズ・モンロー大統領が提唱した方針であったのだが、これを否定したかったのが第32代大統領フランクリン・ルーズベルトだった。
 すでにアメリカは真珠湾攻撃の前より枢軸陣営への禁輸を実施し、レンドリース法による兵器供給を英ソなどに行っている。もしも枢軸陣営が戦争に勝利すれば、アメリカの安全保障上の驚異になるというのが、政府と軍部の共通した見解であった。一説によると、アメリカに亡命した反ナチ勢力からの突き上げもあったようだ。
 そのため、アメリカ政府は世論に反し、連合国への支援を続行しつつ、正式な参戦の口実を探っていたという状況だった。そこに実行されたのが真珠湾の奇襲攻撃だったのだ。

半日スローガン「リメンバー・パールハーバー」

 日本大使館のミスで、真珠湾攻撃は宣戦布告前となってしまった。ルーズベルトは、この事実を世論誘導に利用する。ワシントン時間12月8日12時29分、米連邦議会の演壇でルーズベルトは日本軍からの攻撃を国民に告げる。そして日米和平の努力を強調しつつ、日本が偽りの言葉と和平表明で合衆国を欺瞞したとアピールしたのである。
 これに加え、攻撃は太平洋全土で実施されていることを告げ、国民の危機意識もあおる。この演説によって、12月7日は「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」と呼ばれることになる。まさに「善良なるアメリカが卑劣な日本に騙された」というイメージのもとに、ルーズベルトは戦争への参加と理解を国民に訴えたのだ。
 この日を境に国民世論は一変。大統領の演説はラジオを通じてアメリカ全土で放送されていて、聴衆たちは日本への怒りを爆発させた。そして午後1時26分までに、連邦議会は対日参戦を可決。反対票は下院での1票のみと、ほぼ満場一致であった。
 ワシントンでは日米融和の象徴であった桜の木が伐り倒され、軍にも若者たちがこぞって志願するようになる。このような流れで生まれたスローガンが「リメンバー・パールハーバー」だった。

沸騰する日本への復讐感情

 直訳すると「真珠湾を忘れるな」というこの言葉は、19世紀にメキシコとテキサス革命軍の間で発生したアラモの戦いの後に叫ばれた「リメンバー・アラモ(アラモを忘れるな)」が元ネタであるという。こちらは圧倒的な強さだったメキシコ軍と戦った勇敢さと愛国心を讃えるフレーズだったのだが、日本への復讐心を掻き立てる言葉へと変化したのだ。
 わかりやすいスローガンを得た参戦運動はさらに激化し、民間企業も次々に便乗していく。戦意高揚のポスターやカードはもちろん、切手や車のナンバープレート、衣料品にまでパールハーバーの名が刻まれる。真珠湾攻撃を題材とした漫画や映画を出すなど娯楽業界も追従し、音楽業界も当然この流れに乗った。
 ルーズベルト大統領の演説レコードは飛ぶように売れ、真珠湾攻撃を題材とした行進曲まで販売されている。題名は当然「リメンバー・パールハーバー」。レコーディングは真珠湾攻撃の10日後。作曲のサミー・ケイと作詞のドン・リードは当時の人気歌手であり、1942年1月にRCAビクターから発売されたレコードはリリースから2週間ほどで全国へとひろまり、その年を代表するヒット曲となった。
 これらのグッズや娯楽を通じて、大衆は日本への復讐心を再確認。その反日感情は終戦まで燃えつづけることになる。政府もこれを利用して戦争と日系人弾圧を推し進めていった。
 このように、アメリカは奇襲攻撃を宣伝利用することで、反戦世論を一気に押し流したのである。

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