日本古代天皇史②

初代天皇であるハツクニシラススメラミコト

崇神天皇は大和国(現奈良県)三輪山の麓に瑞籬宮を構え、その事績は北陸道・東海道・山陽道・山陰道に将軍を派遣して地方の賊軍を平定したこと、戸口を調査して課税を行ったこと、そして、それまで宮中に祀っていた天照大神と倭大国魂神を畏れ多いとして皇居の外に遷したこと、などが挙げられる。
つまり、崇神天皇は全国を平定し、税の徴収を始め、政治の場と祭祀の場を別にするという、軍事・財政・神事の基礎を固めた天皇と見ることができる。
さらに、崇神天皇が初代とみなされる理由は、その名称にある。
天皇の諡号(死後の贈り名)には漢風諡号と和風諡号があり、たとえば「神武天皇」は漢風諡号で和風諡号は「カムヤマトイワレヒコ」という。ただ、和風諡号は厳密な意味での「贈り名」ではなく、生前にも使われた美称だともいわれている。
そんな和風諡号は1つではない場合が多く、神武天皇はほかにも「ワカミケヌノミコト」「トヨミケヌノミコト」、そして「ハツクニシラススメラミコト」の名称が用いられる。 
このハツクニシラススメラミコトを漢字表記すると「始馭天下之天皇」となり、その意味は「初めて天下を治めた天皇」のこと。そして、同じ諡号を持つのが崇神天皇なのだ。

即位は3世紀から4世紀ごろ

崇神天皇は「ミマキイリヒコイリエノミコト」などのほかに、「ハツクニシラススメラミコト」(御肇國天皇)の名を持つ。漢字表記こそ違うが音は同じで、意味も神武天皇と同様だと考えられている。
しかし、崇神天皇の即位は西暦で紀元前97年ごろとされ、その在位年数は68年、宝算に至っては『古事記』で168年、『日本書紀』で120年。在位年数はまだしも、年齢は常識を超越し、即位の年も信じがたい。
これらの点について、『古事記』には崩年の干支が「戊寅」とされていることから、西暦258年もしくは318年と推測する考え方がある。『魏志倭人伝』による邪馬台国の時代とほぼ合致するし、宝算も短縮され現実味が帯びてくる。
すなわち、天皇家を中心としたヤマト王権の設立は3世紀から4世紀ことだとするのが、現実的だといえよう。
神武天皇が実在したとすれば125代、崇神天皇からだとしても115代続く天皇家は一度も系統(皇統)が途絶えず、しかも男系によって受け継がれてきたとされる。これを「万世一系」という。だが、実は何度か途絶えているとする説もある。いつ断絶したかについては研究家によって異なるが、多くが指摘するのは継体天皇の時代だ。

近江から迎え入れられた継体天皇

先代である武烈天皇は、第24代仁賢天皇の皇子である。在位期間は、わずか8年。『日本書紀』には、その8年間に行われたとされる、さまざまな残虐な行為が記されている。
即位して2年の秋には、妊婦の腹を割いて胎児を見る。3年の冬には人の爪を剥いでイモを掘らしている。
4年の夏には人の頭髪を抜いて木のこずえに登らせ、その木を切り倒して墜落死するようすを見て喜ぶ。5年の夏には、人を池の堤の樋に沈め、外に流れ出てくるのを三刃の矛で刺し殺して楽しむ。
7年の春には、人を木に昇らせて弓で射落とし、8年の春には、裸の女性に馬の交尾を見せ、興奮した女性は殺し、そうでなかったものは奴隷としている。
 まさに極悪非道ともいえるおこないだが、これらの記録は『日本書紀』のみであり『古事記』には記されていない。『古事記』に描かれているのは、長谷之列木宮(日本書記では泊瀬列城宮・以下同)で8年間在位したことと子どもがいなかったこと、御陵が片岡之石杯岡(傍丘磐坏丘陵)にあることくらい。そして崩御後に跡継ぎがいなかったので、近江国(現滋賀県)から袁本杼命(男大迹王)を呼び寄せたことになっている。
この袁本杼命こそが、第26代継体天皇である。

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