日本古代天皇史⑪

天智天皇の即位と叔父と甥の確執

  父帝の死後、政争に巻き込まれることを嫌った有間皇子は、精神的な病をよそおっていた。なぜなら、孝徳天皇の死の原因は中大兄皇子にあると見ていたからだ。

 孝徳天皇はクーデターのあと、それまでの飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都しているが、8年後に中大兄皇子は飛鳥に戻すよう進言。これに孝徳天皇は同意しなかったため、大兄皇子は皇極皇祖母尊、弟である大海人皇子、さらに皇后である間人皇女までも引き連れ飛鳥に戻る。群臣の多くも大兄皇子にしたがったため、孝徳天皇は失意の内に翌年、帰らぬ人となる。

 このような経緯もあり、有間皇子は中大兄皇子に脅威を覚えたと同時に、反感も抱いていた。そんな皇子に近づいたのが蘇我赤兄だった。

 赤兄は馬子の孫、蝦夷の甥で入鹿の従弟に当たり、中大兄皇子に反感を抱く条件は整っている。そんな赤兄は斉明天皇と中大兄皇子による失政を挙げた上で、有間皇子に謀反をそそのかす。皇子はそれに同意するが陰謀は発覚。中大兄皇子に密告したのは、ほかならぬ赤兄だ。これにより、有間皇子は絞首刑に処せられてしまうのだった。

 結局、中大兄皇子は斉明天皇崩御の後に即位する。38代天智天皇である。

 より天皇の権威を高め、権力を掌握して中央集権を進め、近江へ都を遷した天智天皇だったが、在位期間はわずか3年。即位当初は弟である大海人皇子に皇位を譲る意向を示していた。天智天皇が病床に伏せたときも、大海人皇子に「後事を任す」と告げている。だが、大海人皇子はそれを固辞し、大友皇子を推挙。これが39代弘文天皇誕生の経緯だ。

 だが、天智天皇は弟ではなく、長男へ継承する気が強かった。なぜなら、665年に来朝した唐の官吏・劉徳高が「この皇子、風骨(容姿)世間の人に似ず、実にこの国の分にあらず」と絶賛するほど、大友皇子は才覚にあふれ、事実、多くの優れた詩を残している。さらに大友皇子は5人の高官を前にし、「父の詔」を守ると宣言している。この詔の内容は不明だが、皇位継承の指示だとする説もある。

 ではなぜ天智天皇は大海人皇子に、後継を促すような言葉を告げたのか。それは、もし大海人皇子が、その言葉を信じて承諾すれば、「謀反の疑いあり」として討つためだったと考えられる。

皇位をめぐった唯一の内乱

 

 大海人皇子は兄の策謀には乗らず、出家をして吉野に篭もる。だが、天智天皇崩御後の672年、大海人皇子のもとに報せが入る。それは大友皇子が人員を集め、それぞれに武器を持たせているというものだ。また、「近江から飛鳥にかけて敵情視察をする斥候を置いている」「宇治川の橋守が吉野への食糧調達を邪魔する」といった情報も入る。

 これを受け大海人皇子は、主に東国から兵を集めて挙兵。対する大友皇子は朝廷の近隣諸国から兵を集めて対立。「壬申の乱」の幕が切って落とされる。

 ただ、大海人軍の軍勢は朝廷軍を圧倒していて、多少の敗戦はあったものの、ほとんど連戦連勝。6月に始まった内戦は7月の「瀬田橋の戦い」で決着し、大友皇子は首を吊って自害した。

 ちなみに、天智天皇が崩御して大友皇子が没するまで7か月しかないため、即位はしていないという見方が有力だ。しかし、平安時代の複数の史書には即位を記しているものがあり、江戸時代から明治初期にかけては即位説が有力で、そのため1870年に弘文天皇の追諡がなされている。

 皇位継承を原因として内乱まで起きたのは、後にも先にも壬申の乱だけだ。そして、この内乱によって、のちの天皇家に大きな影響を与えたことがある。それは、兄弟間から親子、つまり直系への相続が原則化したことである。

 壬申の乱は叔父と甥の争いではあったが、そもそもは天智天皇が、弟への相続に難色を示したのが原因となっている。すなわち、兄弟相続は争いの種になりかねず、これを未然に防ぐ必要があったのだ。

 皇位を内乱という形でもぎ取った天武天皇は、さらに国家の整備を進め、唐にならった律令制を整備する。しかし志半ばで崩御し、あとを引き継いだのは天武帝の皇后である持統天皇だった。

 本来であれば後嗣は天武帝と持統帝の皇子・草壁皇子だったが、即位の前に病死。持統天皇は孫の軽皇子への皇位継承を望んだものの、皇子はまだ7歳と幼く、成長するまでの中継ぎとして皇位についたものと考えられる。

 やがて軽皇子が15歳になると、持統天皇は皇位を譲ろうとする。しかし、天皇が後嗣を皇子に決めようとしたとき、群臣はそれぞれの意見を述べ、まとまろうとしない。そのとき、発言したのが大友皇子(弘文天皇)の皇子・葛野王だ。

「わが国は神代以来、子々孫々が天位を継いできた。もし、兄弟に皇位を譲るようなことがあれば、それが原因で乱が起こる」

 これを耳にした天武天皇の子・弓削皇子が何か言おうとしたところ、葛野王が一喝して黙らせたという。これで親子の直系相続がほぼ定まり、軽皇子の皇位継承がまとまる。42代文武天皇である。

 だが、即位に至るまでを見てもわかるように、文武天皇の支持基盤は弱い。群臣の中には、古来よりの兄弟相続を望む声が大きかったのである。そこで譲位後も持統天皇は、「太上天皇(上皇)」として政務の実権を握る。そして、天武天皇の悲願でもあった本格的な律令「大宝律令」が成立すると、その翌年に崩御。遺体は火葬され、夫である天武天皇の御陵に合葬された。

壬申の乱に関する異説

 

 天智天皇が大海人皇子ではなく大友皇子に皇位の継承を変更し、大友皇子が譲位を確実にするため反大海人のために挙兵し壬申の乱へと発展した。だが、これらの内容には異説もある。ひとつは皇位継承についてだ。天智天皇は、本当に大海人皇子を皇位継承者にするつもりだったとする説があるのだ。根拠は両皇子の母親の出自だ。

 古代の皇位継承には、父親だけでなく母親の身分も重要視された。大友皇子は確かに第一皇子だったが、母親は地方豪族出身の女官である。これに対して大海人皇子の母は皇極天皇(斉明天皇)だ。血筋については大海人皇子が圧倒的に格上なのである。

 息子可愛さに暴走したという声もあるが、当時は群臣の支持がなければ後継者になれない。実子への相続制も根付いてはおらず、群臣達が身分の低い大友皇子を推すとは考えられない。大海人皇子が一旦皇位を辞退したのは、譲位を一度は拒否するのが当時の慣習であるからだという。

 だとすると大友皇子は、この状況を覆すために挙兵を企てたのか。実は先に挙兵したのも大海人皇子だとする説もある。

『日本書紀』では、大海人皇子は挙兵4日後に3000の兵力を集めて不破道を閉鎖したとする。しかし通信手段が未発達な古代で、何の準備もなく数千の兵を短期間で招集するのは不可能に近い。しかも、吉野脱出後には郡司や国宰が続々と合流したとしている。皇子の人望だけでは片付かない流れのよさである。

 さらには吉野到着直後に皇子は使用人達に「仏道を極めないのなら去れ」と暇を出したといわれ、到着から半年間の記録も『日本書紀』から抹消されている。急な大量解雇も吉野の記録が一切ないのも、あまりに不自然だ。

 さらに、大友皇子が兵を徴収し、各所に監視網を築いたとする話には証拠がない。物的証拠がないのは大海人皇子も同じではあるが、その後の行動があまりにもスムーズに働きすぎている。こうした状況証拠から、大海人皇子の挙兵は入念に準備されたものだったという見方が強まっている。

 解雇された使用人は各豪族達との連絡員であり、空白の半年間で兵力の準備を整えた。そして天智天皇の崩御を待って兵を挙げたというのである。

 大友皇子を討ったのは、単なる権力欲とも、半島出兵を阻止するためとも、反大友派の鸕野皇女(持統天皇)たちにそそのかされたともいわれている。

『日本書紀』は天武天皇の皇子・舎人親王が主となって編纂されたものなので、父に都合の悪い真実は除外されている可能性もあるのだ。

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