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#23 生きるということ/エッセイ

この前ひっそりと江の島に行った。
そこに理由はなくて、ただ一つもし理由をつけるとしたら「海が好きだから」である。その曖昧性の高い理由とともに、この理由に脚色をつけるような旅をした。

目的地は特に設定をしていなかった。
江の島駅に到着して、それからどこに行こうか。
一人会議を頭の中で簡略的に行い、久しぶりに江の島に行くことにした。

2週間前のその日は暑くて、汗は滝のように流れ落ちた。
外国人、家族、友人、カップル、色んな組み合わせでカテゴライズされた人々を横目に、流れる汗とともに黙々とただただ歩き続ける。

まずは江の島神社に到着。
それからエスカーには乗らずに、階段を2段飛ばしで駆け上がる。一気に駆け上がると息は荒くなり、また汗が吹き出し。息と汗の追いかけっこ。
落ち着くためにまた慎重に1段で進む。
そんな事を繰り返して、気が付くと最奥の稚児ケ淵に到着した。

この淵の名前は、【稚児白菊がこの淵に投身したこと】が由来らしい。
由来を知るとなんとも言えない気持ちになるが、淵から見える空は青くて、その青さに見慣れているはずなのに、初めて出会うような気持ちになった。
足は疲労でパンパンで、汗でびしょびしょで、息はゼエゼエ上がっていて。
それなのに、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、その美しさに心を奪われて時が止まったような感覚を覚えた。
コーヒーに入れたミルクを穏やかにかき混ぜるような気持で、波が緩やかに満ち引きのリズムを刻むような感覚で、秒針を無視して時はゆったりと進む。

事あるごとに偏屈な性格が、すべての事に理由をつけたくなる。またそれが転じて相手にも根拠や理由を求めたがる。
今回の旅もどこかで「空白の時間」に理由付けをして、そこに意味を求めたがっていたのかもしれない。ある種、空白の時間を持つことにどことなく後ろめたさのようなものを感じていたのかもしれない。
コスパやタイパなど、横文字の近代的な効率化の単語が並ぶが、効率や意味を求めすぎた先の人類は、一体何を求めているのだろうか。そして同様に、自分自身も何を求めていたのだろうか。

人生にもイマという時間にも脚色はいらなくて、その美しさを美しいと思えるこの瞬間を素直に味わえることを大切にするだけで良いのかもしれないと、なんだかそう思えた。

相も変わらず目の前の波は穏やかなメロディーを奏でる。
私だけの癒しのメロディーを、理由のない今日を、その瞬間を、脚色を忘れた今を、味わい尽くすことが生きるということなのかもしれない。



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