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「うつ病前の自分には戻れない」の真理

うつ病を患うと、患う前の自分には戻れない。
前のようになろうと思わない方がいい。

色んなところで言われているこの表現、少し前まではずっとマイナスの意味で捉えていたけど、最近戻れなくていいんだから当たり前だと思うようになった。

※タイトルから誤解がないように先に言うと、この解釈が正解とか、どう捉えるべきとかの話をしたいんじゃなくて、純粋に私はうつ病の前の自分に戻りたいと思わなくなったという話。


うつ病になったこと、それにより休職して仕事から離れたことを、良かったこととは思っていない。
なきゃないでいい経験だし、休職初期の生き地獄のような毎日は私の人生に必要だったとは思わない。なので、私はこの経験を今後も美談として語りたくはないなと思っている。

この病気を患って良かったことなんて一つもないけど、この数ヶ月自分の病気や自分の思考と嫌でも向き合わされてきた中で、自分の頭と心から発信される信号の受け取り守備範囲が広くなったなと感じている。


ここ数ヶ月、ちょっと疲れたとか、少し不快とか、若干億劫だとか、あんまりやりたくないとか・・・他にも見過ごしてしまおうと思えば簡単になかったことにしていた信号を、意識して拾うようにしてきた。
今までだったら頑張り・我慢・努力でどうにでも打ち消せてしまっていたような声の小さい違和感のボリュームを上げるようにして、かき消さずに耳を傾けることで、自分自身との嘘のない交信が出来るようになったように思う。


かすり傷にもならない程度のダメージを全部気付いてあげる意識を持つことで、常に自分が無理をしない状態で居られることの安全性を知った。

楽をしたりサボったりすることに肯定的になれなかった過去の自分は、頑張るという万能調味料をかければそれとなく人生の味がまとまっていくと思っていたので、自分が発信している信号の本質を覆い隠していたように思う。


生きやすくなったと言うには大袈裟かもしれないけど、今は楽をすることが悪いことではないと胸を張って言えるようになった。


それから、人にも自分にも、頑張るという言葉を発さないようになった。

「頑張ってね」「頑張るね」
昔は大好きで安心する、自分を守ってくれていた言葉だった。
でも今は、人に対しては「応援してるね」と言うようになったし、人から「頑張ってね」と言われたら「ぼちぼちやるね」と答えるようになった。

「頑張る」は悪い言葉じゃない。
でも、“頑”なに、肩肘を“張”って走り過ぎてしまった私には、しばらくは距離を置きたい言葉になった。


頑張れないんじゃない、頑張らない。

そうやって生きようとしたら、自然と自分から離れていった言葉になった。


自分の中で、毎日を生きるペースが少しずつ変わったように思う。
走り続けていないと怖かったけど、立ち止まりながら歩くように生きる方が心地よくなった、気がする。

前まで安心だと思っていたものが、過去の私を壊してしまったのだから、うつ病になる前の自分には戻れなくていい。
うつ病になる前は元気だったかもしれないけど、安全な生き方はしていなかった。だから元気だった自分を壊してしまった。
もう二度と自分を傷つけて動けなくすることはやめにしよう。


少し前までは「早く前のように元気になりたい」とずっと思いながら療養していた。
でも今は「自分が叶えられる最大限の生きやすさ」を手に入れたいと思う。


仕事は生きやすく生きるための一つの手段。
安心して暮らすために必要なお金を自分の力で稼ぐ場所。

一つの手段と場所で自分の心の安全性が保たれないなら手放せばいい。
手放すのが難しいなら、やり方を考え直せばいい。

全ての物事に正解を決めず、病気になる前の生活は当時の私だから出来ていたことと切り離して、元通りになることを元気になることと履き違えないようにしたい。

だから私にとって「うつ病前の自分には戻れない」は正しい。
その真理は、あの頃の生き方に戻ると同じことを繰り返してしまうかもしれないから。


もちろん誰かにとっては「うつ病前の自分」に戻れることが生きやすさであっていい。前の生活を取り戻すことは、出来ていたことが出来るという大きな成果で安心感になる。


私は、うつ病前の自分には「戻れない」し「戻らない」。
でも、ある人にとっては「戻れる」し「戻りたい」かもしれない。


だから今この瞬間に辛くしんどいあらゆる人に、簡単に明日も生きようとは言えないけど、明日の道筋が定まらなくともせめて小さな灯りが点っていたらいいなと思う。



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