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年の初めに

自分が書いた文章が、活字になることがたまらなく好きだった。

今、頭から流れ落ちたものは、指先をチョイチョイ動かすだけで、活字になる。
修正も編集も簡単だ。
夢のような世界だ。

小学生の頃は、まだ絵を描くことが勝っていて、それは漫画として表現されていた。
ただ、よし本格的に描いてみよう!と思うと、何をテーマに描いていいのかわからなくなる。特に伝えたいストーリーもテーマもないのだ。

何度も転校したが、いつも新聞係を志願していた。なにか書いたものがガリガリとガリ版刷りにして、プリントとなって配られていくことが、ワクワクした。
新聞には四コマ漫画を描いていたが、大したネタもなく、これは苦労したのだった。

中学生になると、漫画は単にイラストとなった。交換日記なるものが流行り (今のようにLINEなんぞありませんから、友人とのやり取りは直接会話、電話、それから交換日記なんですのよ、奥さん)
日記のように出来事を単に書き連ねる子もいれば、おしゃべりをそのまま文章化してみたり、イラストや漫画を描く子もいた。
そこには特にルールはなく、自由だ。採点もない。
イラストや、今から思えばエッセイ的なものを書いている内に、あった出来事に多少の脚色や起承転結、笑いのオチなんかをつけて、短い読み物を書くようになった。
友達が読んで面白がってくれたが、なにより自分が読んで楽しんでいた。


以降、なにか失敗、事件、事故があった時に、常に頭の片隅で、「あ、これネタできたな」とささやきが聞こえるようになった。
サイアク〜と思うと同時に、冷静に客観的にその事件の顛末を記録している自分がいるのだ。


十代の終わりから二十代にかけて、一番混乱して苦しかった頃は、文章には表現できず、短いけれど迸るような詩になった。
それからストーリーのない絵を描いた。


家を出て、自分のペースで生活できるようになると、浴びるように本を読んでいた。


本の雑誌という雑誌がある。
椎名誠さんが編集長をされていた。
同氏の当時の小説に、活字中毒者地獄の味噌蔵というものがあるのだが、まさに、そのまんまの世界である。こんなに活字を愛してやまない人々が、存在するのだということが、嬉しかった。良かったと安心した。


本の雑誌には読者のハガキコーナーがあり、それは三角窓口といわれていた。
本好きな人々が読者なわけで、かなりレベルが高かった。ここから出た作家さんエッセイストさんもいるぐらいだ。
この三角窓口へせっせとハガキを書いていた。2、3回採用されただろうか。
書いたものが活字になる、それはもう至福を通り越した快感である。


さらにその上、何年か後に、その三角窓口をまとめた書籍が出版されたのだ。私の投書も掲載された。ひゃあひゃあと声にならない雄叫びをあげて喜んだのだが、なぜかその本は今は手元にはない。

その後、ワードプロセッサー通称ワープロなるものが普及し、さらにパーソナルコンピュータ通称パソコンが追って普及し、現在のように手書きを活字に置き換える手順が取り払われることとなった。
このことによって、私の文章を活字に欲は、日常的に解消されることとなり (もう単に仕事で記録や日誌を入力するだけで、満足してしまう) 個人的なものは書かなくなってしまったのだった。

ところがそこへ、ブログというものが登場した。
それ以前にも書き込みサイトはあったのだが、それは単に会話が文面になっただけのもの、話し言葉が読み書き言葉になっただけのもので、あまりワクワクはしなかったのだ。

しかしブログはちょっと魅力だった。

小学生の頃伝えたいストーリーがなくて漫画を断念したこと、ブログも伝えたいストーリーが必要と思っていた私には、手をつけてはいけないもののような気がして、しばらく羨ましく遠目にしていた。


いろんな人のブログを読んで、それから自分とじっくり向き合うようになって、誰にではなく、自分に書いてみるのもいいじゃないかと思えるようになって、ブログを書き始めた。

もう、単純に楽しい。

そしてとあるブロガーさんからnoteという存在を知った。
こちらも最初は読むオンリーだった。
プロ、セミプロと言ってもいい書き手ばかりだ。だからこそ記事をお金に換えるシステムも備わっている。


そして、ここにも、書きたい気持ちが募ってきた。でも、何を書く?私が紡ぎ出せるストーリー、それは、私の物語しかないじゃないか、、、


というわけで、自伝的なものを書き始めたわけなのであります。


テーマは自分、私の頭の中であります。
ただもう、書きたいという欲望だけで、書いていこうと、令和2年の年の初めに、宣言するものであります。
電脳の神様に、そして私に、世界に、今年もよろしく。


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