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灯台下暗し

アトリエと先生というnoteにも書いたのだが、小学高学年から高校にかけて、アトリエに通っていた。
アトリエの先生の奥様が、易学に造詣が深く、それは先生の子供たちへの指導にも活かされていた。美大受験の頃になると、進路相談にも乗ってくださり、そこにもその情報は活かされているのである。

美術系といっても、絵画、デザイン、造形、陶芸、金工などなど、多岐にわたる。
純粋に芸術家を目指すのか、デザイン、パタンナーや建築などのように、技術系を目指すのかでも大きく違う。
その子の個性を踏まえて、指導してくださるのだ。

年子の私は、親からは大学進学については、短大までで、出来るだけお金のかからないようにと、圧をかけられていた。
兄はストレートで大学に進学していた。

当初は通える範囲の短大を検討していたものの、美術系の短大を出ても、結局一般職に就職する人が多いと聞き、何だかつまらない気がして、自分で専門学校の彫金科を探してきて、ここにすると先生に伝えた。

当時は専門学校の評価は低く、先生はかなりガッカリしたようだったが、家の事情もよくご存知で、反対も賛成もされないなんとも微妙な雰囲気だった。

受験に向けて指導が始まる中、私には何故か構図のいらない精密画の課題が与えられた。

受験でのデッサンには、構図も重要ない要素で、与えられるモデルとなる素材をどの向きでどのように置くか、組み合わせるか、なども採点ポイントになるのだ。
デザイン科を目指す受験生には、色彩構成なども課題に出る。

ところが私は、毎週薔薇の花を一輪買って持って行き、ひたすら薔薇の花を描くのである。

デッサンの場合、最初は大きくあたりをつけ、全体を捉えてから細部へ向かう。
最初から細部を描き込むと、バランスを崩してしまうからだ。
細部を描き込む時も、ポイントを決めて、例えばその素材のもっとも特徴を表しているところを描き込んでいく。一番手前のところとか、光が当たるところとか、だ。するとより立体的に絵が浮かび上がってくる。

ところが細密画は全てを細かく観察して描き込むのである。
もっと細かくもっと細かくと言われて、かなり戸惑った記憶がある。

どういう分野が向いているか、を面談で話してもらうのだが、あなたは土(陶芸とか)でもない、木でもない、何か細かいこと、掘り下げることが向いていると思う。植物図鑑などの細密画を見たことがあるか?ああいうものを目指してはどうか、と言われたのだ。

掘り下げるといえば、数秘で7という数字を持っていて、何かで見ていただいた時にも、掘り下げるというキーワードを聞いた。

社会に出てから前半戦は、職人だった。
これは掘り下げ体質に向いていたのだろうか。
コツコツやるのは良いのだが、いかんせんすぐに飽きてしまうので、単調な作業を繰り返すのは向いていない。
分業ではなく、すべての工程を一人でこなす業種だったことが幸いして、なんとかやれていたと思う。

単調作業と掘り下げは似て非なるものだ。

掘り下げ体質は、何に発揮されていたのだろうかと、ふと考えてみた。

後半戦の介護職においてはどうだろう。

確かに、利用者さん、特に担当するお相手については、情報収集してアセスメントし、援助内容や方法を考えるという側面があり、掘り下げ体質は活かされていただろう。

しかしながら、それは仕事の上の事であって、個人的に、例えばプライベートでお会いする人々にそこまで興味を寄せるかというと、そこまででもないのである。
どちらかというと人の顔やお名前を覚えるのは苦手だし、親しくなってもあなたはあなた私は私なのである。

仕事に関係なく掘り下げ体質が現れているのは、読書好きというところか。
知る、ということが楽しいし、好きだ。

ところがここにおいても、飽き性と散漫なところがあって、一つの分野を掘り下げるのではなく、知識への興味はあちらこちらへと散漫し、何かのスペシャリストにはなり得ないのである。

むーん、なんなのさ。
この役に立たない掘り下げ体質は。

大型書店に住み込んで、ここにある本全部読めたらいいのになぁとか、妄想したことはあるが、賢者の石でも手に入れない限り、知識を入れても入れてもキリがなく、途方もなく、どこまで行ってもまだ足りない、まだ知らない、まだ全てではない、、、
掘り下げれば掘り下げるほど、欠乏感に苦しむだけだったのだ。

なんだかなぁとか、思っているうちに、子どもが出来たりして目の前の生活に追われ、そこんところを追求することもなく時が流れた。
普通のお母さんになって、そんな小難しいこと、考えるのやめようとも思った。

そうこうしていると、自分と向き合わねばならない時がやってきた。
自分て、何なんだ?
何なんだ?
何なんだ?

考えていると、ふと気がついた。

十代の頃から同じこと考えてないか?

自分て、何なんだ?

十代から五十代の今まで、ずーっと同じこと考えてるよな。

自分て、何なんだ?

あ。

同じこと、ずっと掘り下げて掘り下げて、深く深く考えてるじゃないか、、、。

誰に言われなくても、たとえやめろと言われても、自然に無意識にやってしまうことが、得意なことだと言われれば、私の得意なことは、

自分て、何なんだと、考えることだ。

何のお役に立つのかなどは、今となってはどうでも良いではないか。

今や私のベクトルは、私の内側へと向かっている。
外へ向かっていた時のような、欠乏感や、焦燥感は感じない。

探していたものが、あっ、こんなところに、しかもすぐ足元に、灯台下暗しとは正に、こんなところにこんな扉があったなんて、ワクワクする以外にないではないか。
飛び込むしか、ないだろう。

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