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サム・スミスと悪魔映画の楽しみ方

日本では公開されてからラッセル・クロウの新しい当たり役としてファンの間で話題になっている『ヴァチカンのエクソシスト』は、インドでも10crルピー(1億ルピー=1億6000万円くらい)の売上を挙げ、まあまあのヒットだった模様。インドにおける今年のアメリカホラーの売上一位は『Evil dead rise』。以下のサイトによれば、最終的に31cr(つまり4億円くらいか)の売上になったらしい。いいねえ。

さて、今回は『ヴァチカンのエクソシスト』は、悪魔祓い映画としてどうなのか、という点を論じて行きつつ、悪魔祓い映画の楽しみ方と、現実世界でサタニスト表現をするサム・スミスをどう考えたらいいのか?ということを考えたい。

悪魔祓い映画は、ホラーの形をとった、宗教の正当性を讃えるためのメディアの一つであると言える。殆どの宗教は人間の中から悪いものを追い出す超自然的行為を古くから知っているため、コンセプトとしても理解しやすい。必ずしもカソリックでなくとも映画の意味が分かるのだ。

ちなみにマルキシズムにおける悪いものを祓う行為は、思想学習、自己批判大会、つるしあげ、そして意識を進歩させる=アップデートへの確信によって宗教行為を代替している。故にマルキシズムの手法は宗教を否定した宗教なのだと思う。

ちなみにヒンドゥーインドの想像力においては、神様は積極的に人を助けに来てくれるため、ホラーの形を取る必要もない。ヒンドゥーの神々を讃える映画に悪魔という媒介は必要ない。直接悪い人間を懲らしめに来てくれるからだ。悪魔のせいにはできないが、倫理的に責め立てもしない。したがって、復讐と正義が紙一重に見える。

それに対し、悪魔祓い映画は旧世界からスピンオフした意識高い系集団の末裔であるアメリカの十八番である。

未だ人気の悪魔祓い映画の存在は、現代アメリカにおいて神との関係をどう捉えるのが標準的なのかということも示唆している。アメリカにおいてはキリスト教…いや、宗教はインドにおけるのと同じくらいには有効なのである。ということは、特に同性愛者男性にとっては極めて息苦しい価値観が常にそこらじゅうに息づいていることを意味する。であるからこそ、カウンター表現としてのサタニズムに惹かれる『ザ・クラフト』の少女たちやサム・スミスらの心性も出て来るのではなかろうか。一神教であるキリスト教はまことに人に厳しい。宗教性が一応退潮したアメリカにおいては、宗教への思いと現実の有り様の駆け引きがホラーの中で表現されると言ってもいいのかもしれない。


キリスト教の悪魔祓いというのは、基本的には、神の正義を、傷つき滅びる運命にある人間個人の身体を使って証明するという凄惨な営為である。聖職者自体が戦うのならともかく、実際に犠牲者(供物)にされるのは悪魔に取憑かれた弱き人間である。ひどい。理不尽だ。『エクソシスト』のカラス神父も、「なぜこんな罪なき少女がかような目に遭わねばならぬのか」と自問する。そこでの解は、メリン神父の言う通りなら「神への信仰心を試すために悪魔はそのようなことをするのだ」というものだ。全く神様は何をしているのか?という問いを立てることが許されていないのだ!自罰的で非常に厳しい。日本人にはあり得ない厳しさだ。


カラス神父は自らの命を捨てても少女を救った(そして代わりにマクニール家の秘密や羞恥は隠ぺいされる)。それと比べると、『NY心霊捜査官』の原作者ラルフ・サーキは強気だ。自分が弱きものを守ってやるというマッチョ主義を感じさせる人で、自分が犠牲になる気はさらさらなさそう。実に面白い。実のところ、このマッチョ主義と悪魔祓い映画の相性のよさと関係を考えることは重要だと思う。


マレーシアの悪魔祓いホラー『ムナフィク2』を観ると、アメリカやスペインなどキリスト教圏の悪魔祓いはかなり世俗化されていると感じる。何せ武器は「家族の愛」であるのだから。

https://youtu.be/1l_vAO5e8fQ

マレーシアのムスリム聖職者と悪魔の戦いにそんなものはない。過酷なまでに聖職者は力と意思と信仰を試され、神様は一切助けてくれない。『死霊館』シリーズのように、核家族の夫婦の愛の絆が悪魔を祓うという、極めて保守的なホラー作品は常に人気があるものの、それはやはり、ムスリムホラーと比較すると、まだまだ「厳しさ」が足りないように見える。


家族の愛という形で多少は世俗化(或いは非超自然的に)されているとも言えるアメリカの悪魔祓い映画を「厳し目」にしようとすると「マッチョ主義」(アメリカの場合は銃と筋肉に行きつくだろう)が出現する。そして、神の代理人としての神父と、神から見放された裏切り者のサタンの戦いというのがマッチョ主義を帯びる程に、その戦いは、オタク表現で言うところの「男同士のクソでか感情」とリンクし、宗教という枠を忘れて異教徒のものが楽しめる余地が生まれて来る。


ちなみにラルフ・サーキからオカルト要素を抜くと、『マシンガン・プリ―チャー』になる。やっていることは同じなのだ。悪を倒し、神に仕える乱暴者。


聖職者の孤独と悪魔との激しい戦いがマッチョ主義で糊塗されると、ロシアのアクション映画『T-34』や、インド・テルグ映画の『マガディーラ』を愛するファンにとって、その表現は快楽の受け皿になる。家父長的価値観から出て来ている男制のものを徹底的に消費しつくしてやるという観客の欲望だ。この欲望こそ、実は家父長的なものを相対化し、脱構築して何か違うものを作り出す契機となれるんじゃないか、と最近思っている。むしろ、WOKE的な、価値観をアップデートしろと迫る思想教化運動よりはずっと人間らしく、そして嘘が少ない。何せ観客の欲望に根差しているからだ。


さて「男同士のクソでか感情」という意味で言えば、『エクソシスト3』は男性の中で悪魔との闘争が完結していた辺りが「マッチョ主義」の萌芽を感じさせるが、後々の作品に比べれば弱いとも言える。主役はパート1の刑事だから時間もたっており、老境に入っているわけだが「まだまだ若いもんには負けん」というじじぃの気概が素晴らしい。そして、ブラッティが元々やりたかったのはそれだったのだとしたら、フリードキンの『エクソシスト』は様々な要素が入って完全に別物になっていると言える。私はフリードキンの映画が好きなのだが。


最新作の『ヴァチカンのエクソシスト』はじじぃになっても尚溢れんばかりのラッセル・クロウの「マッチョ主義(≒彼の場合は暴力性)」と若い助手とのバディもの(ブロマンスになりかかり)としての要素が添加されうまく機能しており、娯楽として成功している。


そして、ここが私にとって非常に気になるところでもあるのだが、悪魔が主役アモルト神父の到来を待ち続けている辺りの男同士の湿った絆を感じさせる。皆が忌み嫌うホモソだ。ホモソーシャル。それは男同士の絆であり、フェミニズムの脈絡でも、ゲイスタディーズの脈絡でも「ホモフォビア」を内面化している男どもの作る病んだ関係だと言っている。そういう関係はフィクションで読むと殊の外おいしい。


同作で、悪魔が肛門性交に関するジョークを神父に対して頻繁に言うのは、敵対行為と言うよりも、互いの立場を『お前、ノンケだよね?』と確認し合って相手と繋がろうとしているようにもとれる。そこがゲイの私には永遠の神秘であるノンケ男性の不思議な所である。直ぐ喧嘩するアメリカン・ソフトヤンキー映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』でも、反発しながらも底辺のところでは男同士という絆で救われていく(それは妻が乗り越えた道筋とは異質だ)。


『ヴァチカン』で、男の子供がじじぃの神父に対し、かなり露骨な性行為のことを揶揄するシーンは、「同性愛者」を揶揄しているのではないとも言える。ポリコレ的に言うなら男性同性愛者に対する負のイメージを与えんとしている、とキャンセルされても仕方ないのかと思ったのだが、全くそういう声が聞こえてこないのも不思議といえば不思議。


ところで別の意味で『ヴァチカン』がすごいなと思ったのは、カソリックの歴史の暗部であるスペイン異端審問を積極的に進めたのは実は司祭の指導者に悪魔が取り憑いていたのだ、とするチン説を出している点。『悪魔のせいなら、無罪』である。実はツイッター上で、同作のアメリカのプロデューサーが日本語でさかんに発信していたので、質問してみた。これは原作にあったのか、それとも翻案で追加されたものかと。すると、ドラマ的効果のため翻案で追加されたと答えて下さった。つまり、どうってことない演出に過ぎないわけだ。


さて、マッチョ主義が明確でない悪魔祓い作品、或いは、マッチョ主義どころか悪魔を祓いそこなった映画はどうなるのだろう?


70年代の悪魔ホラーは、そもそも悪魔を祓えていない系譜の作品が悪罵祓い映画と並んで有名だというのもおもしろい。『魔鬼雨』『オーメン』ははっきり言って悪魔の方が強い。少し前の時代の『ローズマリーの赤ちゃん』も同様。為す術も無く侵食されていく様は『ボディ・スナッチャー』と変わらない。マッチョ主義が弱い。


今でも祓えない悪魔映画の系譜があって、『ダーク・アンド・ウィケッド』のように、悪魔の存在が家族の本音を暴き、家族を崩壊へと導く…と描きつつも、その背景にあるのは、家族が本音を晒してしまったら崩壊するしかなかった、という流れに悪魔の関与を載せているだけのようにも見えるのだ。『へレディタリー』も『ローズマリーの赤ちゃん』と同様、悪魔が勝利する作品だ。

悪魔を祓えてしまう映画というのは、伝統的な夫婦の愛による戦いの系譜と、マッチョ主義バトル映画の系譜に大別される。後者が極めて人気だ。


さて、現実においてサタニスト的な表現をする歌手がいる。リル・ナズに続きそちら方面に突っ走っているのはサム・スミスである。彼こそ、ルッキズムへの抵抗、性的奔放至上主義、倒錯的だがそれを倒錯とは呼ばせないという矛盾に満ちた立ち位置(何せそれが標準になった世界では、今標準的な在り様の方が倒錯になるのだから)、ノンバイナリーで前はゲイ男性としてカムアウト済いうミスジェンダリングしか招かない厄介そうな経緯、人に好かれようという気のなさ、という全てをまとめた結果、ライブでサタニズムをやるようになった。他の曲も、何というのだろうか、ディズニーヴィランみたいなかっこになって、人の好さとか、人から好かれようという気持ちが全然伝わってこない。今、何かに怒っている人の象徴なのだろう。ジュディー・ガーランドを演じたレネー・ゼルウィガーと一緒に歌を録音したのはわずか5年位前のはずなのだが、もう地球の反対側まで行ってしまった感じ。歌は上手いし素晴らしい音楽性もあると思うのだが、「計算するのをやめたマドンナの狂気を演じる私=サム・スミスよ」という感じがして、目が離せなくなってしまった。

サム・スミスを理解するということは、悪魔映画(悪魔祓い映画)が持っている意味を更に深く理解する道に繋がっているのではないか…と思っている。何と言っても、悪魔祓い映画のマッチョ主義と、神父と悪魔の間にあるホモソーシャルの絆と相容れない場所にいるわけだから。悪魔に性的揶揄をされたら、「どうぞ」と身体を差し出しかねないサム・スミスは実のところ、悪魔祓い映画を更に超えたところに君臨しているのだろうか。

『友達作りに来たんじゃないわ、恋人探しにきたのよ!』ってうっすら病的なものもにじませるサム・スミス!!

彼は、「私を受け容れろ」という要求と、「人の一般常識には許容量というものがある」という現実の正面衝突という状況の最先端にいるように見える。それはまさにホラーではないか。ホラーは常に社会の中の正面衝突を描き、その解法を考え、挫折も描いてきたと言える。彼には、いや、2020年代の正面衝突をまざまざと目にしている我々には、一体どんな解法と挫折が待っているのだろう。


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