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竹美映画評93 そっとしておいてくれる妖怪譚 『すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』(2021年、日本)

最近、『すみっコぐらし』の最新映画が上映中で、内容はブラック企業を描いたホラー的な作品と聞いた。急にすみっコに会いたくなり、『すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』を観た。

前作に劣らず、いい作品だった。

あらすじ

すみっコの街には、五年に一度の青い満月の夜に魔法使いがやってきて、夢を叶えてくれるという伝説がある。すみっコたちは青い月夜の夜、伝説のとおりに魔法使いたちと楽しいひと時を過ごすが、一番若い魔法使いのファイブがすみっコの街に取り残されてしまった!とかげはファイブを家に招き入れ、楽しく暮らし始めた。ファイブは『ゆめ』という概念を知り、魔法で皆の夢を叶えてやろうとするが…。

そっとしておくテクニック

すみっコぐらしにとても惹かれる点は、とにかく、『優しい』ということに尽きる。薄暗い性格をしたすみっコたちは、なんとなく同じ場所に集まってきた、ゆるい繋がりの仲間たちだ。すみっこを好みながら、すみっこという避難場所を取り合うでもなく、かと言って我慢するでもなく、一緒にいる。詮索もせず察する…、分かってること以上のことを相手には対して求めたりしないという、『そっとしておく』のは他人と過ごすための大事なテクニックだ。…私とて、恋愛するとメンタルが変調を来して、検索したり憶測してしまうのだが、すみっコにはそれがない。

この、『そっとしておく』というコンセプトが気になったのは、『モスラ』を見たときだ。フランキー堺が『そっとしておけばいいのに…』と言ったとき、何かひらめいた。これは日本的なのでは?

そっとしておく、は『触らぬ神に祟りなし』の化身だ。民主主義社会においては、決していい態度とは言えないことでもある。我々は対等(平等と錯覚されがち)であるべきと想定され、それが実現されないことで苦しむ。『そっとしておく≒触らぬ神に祟りなし』は、民主主義社会が含んでいるそんな『きつさ』を和らげてくれる文化的な方便でもある。

ところで、そっとしておいて欲しいときにしてくれない、言わなくていい感想をわざわざ教えてくれ、止めてと言うと理解できないという顔をする…という、日本でも大いに議論される自他境界危機の問題については、インドに来るとまた違った風に見えてきた。インド人は一般に、他人に強い関心を払わないし信用しない。存在ごとスルーしたり、または納得するまで徹底的にやり合う。関心が無いからこそ、無私の親切さや人柄の良さも実に気持ちよく出てくる。人柄のいい人に存在ごとスルーされる哀しさもすごいのだが。

それはいいとして、彼らは、家族や所属集団以外をほぼ信用しない代わりに、恋人という距離感では(万国共通なのだろうか)自他境界危機に直面する。だが、その状態に対する態度が日本とはだいぶ違っていると感じる。自他境界というものを完全無視して互いに傷つけ合うこと…それが愛情表現だと捉えているフシがある

自分の愚痴で申し訳ないが、私のインド人の彼氏は、まずそこはありがとうだろう?と思う場面で、『何でコレコレはできてないの??』から始まることがよくあった。約2年前、インドに来て、急いで見つけたアパートのことを教えたら

何でそんな高い部屋にしたの?
やすいのあるよ!?
とリンクが送られてきた。

まずそこは、お疲れ様、じゃないのか?私は傷ついたし腹がたった。それが初めてでもなかったし。

まず何よりも役に立つと自分の思うことを教えてやることが親しさ≒愛情の表現なのだと考えたらやっと腑に落ちた。或いは単に幼いのかもしれないが。

すみっコたちの、親しい仲に心地よい距離を置く空気感はインドにはあり得ない。

とはいえ、日本人だって、インド人と変わらない人間だ。すみっコたちのように優しくない。自他境界おかしい人なんか山ほどいるし、私とて状況次第でそうなるわけで。そうすると、すみっコとは何なのだろう?

妖怪譚としてのすみっコぐらし

ちいかわ(もはやホラー)、モルカー、すみっコ、シルバニアファミリー…我が国ではかわいいキャラが無限増殖する。まさに百鬼夜行状態だ。

彼らは妖怪なのだと思う

妖怪とはどんな存在なのだろう?田辺青蛙の小説に出てくる皐月という怪がいる。ゆったりとした時間の中で生きる、孤独だが自由な姿、しがらみもなく、気楽だ。皐月タイプの妖怪譚とは、我々人間が生涯憧れ続け、恋い焦がれるが決して実現しない理想、虚構そのものだ。

その虚構は、失くしたパズルのピースと同じで、それさえ手に入れば完璧になるような気がしてくる。『スワン・ソング』や、特に『ボルベール 帰郷』は、失われて決して手に入らないパズルのピースを持っているのは死者だという。幽霊譚の変奏形のかたちを取っているのである。ピースを持って来てくれる死者を待ち続けているうちに、自分もまた、誰かのパズルのピースを持ってこの世から去っていくのがどちらかと言えば「真実」だろう。

映画ですみっコの街の様子が映ったとき、他の住民はことごとく茶色の影として描かれていた。もしやあれは、人間の世界が二重映しになっているのか。我々から見ればすみっコぐらしのほうが影だが、彼らから見れば我々が影なのだろうか。

リアリティに疲れたとき、部屋の隅っこを目を凝らして見つめてみたら、そこに薄暗い誰か…弱者が見えるのかもしれない。弱者には人間の善を体現していて欲しい。普段は見えづらい他者に理想を押し付け、虚構を信じたいという欲望は、現実で行うとあまり品が善いとは言えない結果をもたらすが、すみっコたちなら惜しげもなく応えてくれる。理想の姿=虚構を続けて、人間の方をそっとしておいてくれるだろう。

虚構を体現するすみっコにリアリティはない。故に我々がすみっコと同じことをしても、内実が伴わないだろう。人間は虚構だけでも、リアリティだけでも生きられない。両方を行ったり来たりしながら生きている。妖怪譚や幽霊譚はそのことを思い出させてくれる。

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