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ネオンの下で花開くゲイ能文化(小針侑起著『浅草芸能とゲイの近代史 文化の伏流を探究する 』感想)

私は、日本からインドに出て1年過ぎたのだが、思想が保守寄りになって来たり、日本の特殊性に敏感になるなどの変化を体験している。私はゲイなので、当然ゲイとしての観点から見ることになる。

今、オネエとして…

竹美全告白本を出すときのタイトルはもう決まっているのよ:タケミ・ガ・ミエタラ・オワリ

さて、ドタバタと日本に里帰りして半ば錯乱しながら購入した小針侑起さんの著書『浅草芸能とゲイの近代史 文化の伏流を探究する 』(えにし書房、2022年7月)を読んだ。

https://twitter.com/peragoro22/status/1537429836783681541

戦前戦後の浅草・上野を中心に花開いた男性同性愛者たちの様々な芸能活動、こう言っちゃおう「ゲイ能活動」について、様々な資料から読み解いていく本だ。東京や大阪という大都会がいかに特別な場所であったかという証拠でもあるものの、広いようで狭い日本では、大都会の片隅に花開いた文化は間違いなく他の小都市に染み出していったことだろう。男性のクィア言動への許容度という物差しで測ると、日本は明らかに緩い方の社会に属するという思いを新たにした読書体験だった。まあ、インドと比べちゃうとね…。

同書の中では戦前戦後の東京(特に浅草・上野・日比谷)の情景を主として取り上げている。その中ではGHQとして日本にやってきた米軍男性の中にも同性愛者が沢山おり、日本の若い男性たちと交流していた(私の自主検閲済の表現よ)という記述は、アメリカ人の元GHQの一員として日本に赴任していたアール・アーンスト(Earle Ernst)の小説『Finding Monju』の裏付けになっており興味深かった。

私も外専もどきだし…今じゃ逆『ゴッズ・オウン・カントリー』して相手国で労働…あれ?

『Finding Monju』はアメリカ人男性が文化的に今なお抱え込んでいる内的抑圧をよく描いている小説だと思う(それは当然米ホラー作品に色濃く反映されて来た)。日本人男性の性行動は、彼らにとって驚きでもあり、癒しでもあったのだと思う。それは、今の世界の基準で言うのであれば、立場の圧倒的な違いを利用した性愛だったのだと思う。人種的な違いから生じる欲望だって当然含むと思う。本書『浅草ゲイ能』にある通り、大抵は米国人の帰国によって関係が終わっただろう。森鴎外もドイツ人の女性を捨てて来たし、長崎の蝶々夫人も捨てられた。私だって韓国住んでたときに彼氏ができても、どこかで「私が日本に帰ったら終わっちゃう関係なんだろうな」なんて思っていた(←ひどい)。

しかし、米国側のアーンストはどっこい、その日本での思い出を温め続けお蔵で発酵させていたのだ。どの程度発酵しているかは是非本書を読んで欲しいと思う。訳書が出ればいいと思うよほんとに。もう醸造酒超えて酢になっている!!!

閑話休題(←この言葉を使ってみたかったのよ)。

色々な国のゲイに接してみて思うことなんだけど、大体その国・文化圏のゲイが喜ぶ対象はほぼ同じ。誰が実はゲイだっただの、誰は誰と犬猿の仲だっただの…我々は各国の歌姫や女優に夢中になり、歌やダンスや言動や仕草を真似し、彼女たちのスキャンダルに熱中してしまう。共時的にも通時的にも似たようなものに夢中になって来たゲイは、多分これからもそうなんだろう。そこが感じられ、何だか可笑しくて、うれしい。

一方、日本のゲイが好んで愛した踊りや歌の中身そのものは恐ろしい速さで入れ替わっていったことも分かる。アメリカのゲイがジュディ・ガーランドに反応するような形では、日本の今のゲイが戦前のスター達のことを知り、愛しているとは思われない。本書に記されている人たちの中で今でも支持されているのは、美空ひばり位ではなかろうか。

他方、本書を読んで、自分の中でちょっと「解像度が上がった」と思えたことがある。山田洋次監督についてである。『男はつらいよ ぼくの伯父さん』に登場した男性同性愛者のことを思い出した。ぼんくら青年の満男が日本を旅している途中、ある男性に親切にしてもらい、家に泊めてもらう。その夜その男性が口紅を塗って満男に性行為を迫る。その時のセリフは「みんなやってるんだから!」というものだったと記憶している。そこはコミカルなシーンとして作られていた。私はリアルタイムで観たが、今こんな表象をしたら袋叩きであろう。数年前にそれを思い出し、「監督山田洋次の社会に対する解像度ってそんなもんか、彼が憧れたという木下恵介の世界に遠く及ばないわね!!」と彼の評価を下げていた。『ちいさいおうち』での黒木華演じる家政婦の欲望の書けてなさとか…。

しかし…本書を読んでみて少し考えが変わった。もしかすると、山田洋二の頭の中にある浅草の風景のどこかに、地方から出て来た単身者男性ばかりが集まって住んでいた地域に、レイプ紛いのことをする男性同性愛者が紛れ込んでいたのではあるまいか。そして、むしろあれは正確な描写だったのかもしれない。今のゲイの目で観て受け入れがたいものではあるのだが、ある時期の東京下町に集まってきていた男性同性愛者や、それに限りなく近いクィア男性の痕跡だったのかもしれない。

ゲイバーが全く発達していない上、人々が階層によって明確に分断されているインドに住んでみて、日本・東京のゲイの体験は世界的に見ても非常に特殊なものなのだという考えが強まった。人種や階層ではっきり客層が分断されることもなく(モテるかどうかだけで分断)、色んな人が混ざって遊ぶ文化が成立している。それでいて何か独特の義理堅さのようなものの残滓も感じられる。私の世代にとっては、そういうゲイバーの在り方が当たり前だった。でもこれからはまた変わっていくのだろう。『新宿芸能とゲイ』というような本が書かれる日が来るのかもしれない。未来のゲイはどんなものに夢中になって過ごしているのだろう。

※山田洋次監督の漢字が誤っていたので修正。すみません…

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