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vol.10『現代の日本で感じる「生きづらさ」の原因は何なのか?』

■今週の課題図書

『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』 / 樫村愛子著

課題図書

■『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』を読んでの学び、感想

この本を手に取った時に、現代日本で生きるのは「生きづらい」と思っているのは、自分だけではないことを知り、かねてからの自分の思いが報われたような気持ちになった。たしかに日本は、とても豊かで安全で良い国なのだろうと思う反面、何か停滞感というか、未来への希望が持てないような感覚がずっとある。現代は資本主義経済が進展するなかで、人生における「労働」の比重がどんどん大きくなっている気がする。そしていつの間にか労働が手段から目的化し、さらにはアイデンティティとも深く関わってくるようになった。この本を読み、「生きづらさ」と労働に密接な関わりがあることが仮説からほぼ確信に変わった。

課題図書を読んでの学び・感想

■ 今回の問い

『現代の日本で感じる「生きづらさ」の原因は何なのか?』

今回の問い

■はじめに

個人的な思いとしてずっとあるのは、現代日本において、なぜこんなにも人生における「仕事」のプライオリティが高いのだろうか、と思う。

大学を卒業すると同時に就活を強いられ、ほとんど全員が有名大企業を目指して競争を始める。そこに辿り着けなかったら、それは人生の負けを意味するかのような雰囲気さえある。ただ、重要なのはそこなのか。何を考え、どうありたいのかを考え、そのうえでその有名大企業を目指す人がどの程度いるのだろうか。自分の知り合いでも、有名大企業に運良く勤められても、虚ろな目で日々我慢しながら働く人だっているが、果たしてそのことに何の意味があるのだろうか?と思ってしまう。

そういった意味で、自分は、労働に人生を消費されないこと、すなわち「労働からの解放」に関心があり、今回はそのことついて、深掘りしていきたいと思います。

■社会と労働の関係性

著者によると、労働が今日のように社会に深く組み込まれようになったのは、第二次世界大戦後のことだという。

その契機になったのは、「賃労働社会」の成立だという。賃労働社会は、今や当たり前の概念である、労働することで対価としての賃金をもらう社会を意味する。その成立要件として、以下の①〜⑤の条件を満たすものであるという。

①失業という非労働を道徳的、政治的非労働から区別してニュートラルに制定したこと
②テイラー主義に見られる合理化によって、労働者の職務を確定し、時間管理のもとで労働過程を合理化したこと
③賃金を手にすることで労働者が新しい労働者消費規範を身につけること
④社会的所有(年金などの社会保障)と公共サービス(医療、住宅、教育)により、労働者にも私有財産と同じ効果をもたらす社会的財産を享受させたこと
⑤労働者を労働法で保護し、社会的身分を備えた社会的メンバーとしたこと

著書より

このようにして、労働はいつ間にか、人間は自らを商品化することによって、生活をしていくための賃金を得るようになった。

■賃労働関係に入るということ

また、賃労働関係に入ることは、従属関係を受容することを意味したが、同時に社会保障の享受と共同体のメンバーになることを意味する。

一方で、賃労働関係に入ることは、従来の共同体や社会関係からの離脱も意味しているという。すなわち、労働は人間が自らを商品と化すことで、共同体の紐帯を断ち切って別の場所に運ぶための梯子であり、同時に労働共同体から人格として承認されて居場所を獲得するための手がかりでもある。つまり、労働は、社会に従属するためでもあり、共同体と個人をつなぐ紐帯でもあった。

■労働のサービス化・知識労働化がもたらすもの

昨今は、労働がかつての工場労働などのような「モノ」的な労働から「サービス」的な労働に移行している。サービス労働は「工場労働」を前提に制定された労働基準法などの労働法制の保護と規制の外に置かれ続けながらも、賃労働に少しずつ包摂されて来たのである。加えて、サービス労働的な働き方は、日常生活の維持に近似するため、私生活と仕事の境界を曖昧にしており不安定になりがちであり、それによって賃労働社会の基盤を崩しつつあるという。さらに、そのような労働の「コミュニケーション化」は、労働の「物」としての機能は弱まり、「人格的関係」の機能が強化され、労働保護とは結びつかず、職場で見られる従来の連帯ではなく、企業への「奴隷根性的」忠誠心、あるいは宗教的な洗脳による忠誠心を通した結びつきとなる。

つまり、労働がサービス化することによって、労働者は、労働法からは完全に保護されず、会社組織で労働するということはすなわち組織への忠誠という色合いが増した。

■労働と「生きづらさ」の関係

今日、労働は、賃労働という側面以外に、自己実現の手段という色合いでも語られがちだが、ドミニク・メダによれば、「労働は自己実現に努める諸個人が自己目的として追求する目的として出現したのではなく、初めから手段だった」という。そもそも、労働が個人によって遂行されるのは、飢えに駆られてのみなのである。

しかし、労働がサービス化することで、生活と労働の境目が曖昧になり、労働がいつの間にか生活の一部となる。そうなると、人々は、生活において忠誠的に強いられる労働に意味を見い出そうとする。その意味付けが「やりがい」や「自己実現」ではないだろうか。そうして、労働自体に意味付けすることで労働を目的化するが、労働する中で、やはり「金稼ぎ」の手段であることに気づく。そのスパイラルが「生きづらさ」を生み出している一因ではないだろうか。

■現代における就活

また、もうひとつ生きづらさを感じる場面としてあるのが「就活」である。現代日本において、社会問題ともなっている就活だが、ニュース番組なんかでも、希望の会社に入社できずに自ら命を絶つ人がたびたび報道される。

著者によれば、学生にとって、就職は「青春の終了」であり、自由の停止やアイデンティティの変容を伴うアイデンティティ問題だという。しかも、現在の社会は流動化し、わかりやすく直線的なライフコースは消滅し、成熟そのものが不確かななかで、大人になることを強要される。また、「大人になる」とは、自らに対する全能の幻想から脱出し、自らの限定性を受け入れることを指す。すなわち、就活とは、自分の選択肢や可能性を諦めて、限界を認めるための通過儀礼なのだ。

現代では、普通に生きていても、年金がなくなるだの、給料が上がらないだの言われて未来がないのに、就活では、自分の限界を受け入れることを強いられる。このことも、「生きづらさ」につながっているのではないだろうか。

■まとめ
ここまで、労働というものと「生きづらさ」との関わりを考えてきた。本来、労働は労働であり、生活とは切り離されていたが、労働がサービス化することで、生活の一部に労働が組み込まれることになった。その過程で、労働にやりがいを持ち込まざるを得なくなったのではないか、というのが個人的な見解である。また、就活という大人になる通過儀礼の過程で自分の可能性を「諦める」ことで、さらに未来に希望を見出せず、「生きづらさ」を抱える若者が多いのではないか。

ここまで読んでいただいた方は、「なんでコイツはここまで未来に絶望しているのか?」と思われるかもしれないです。

自分が言いたいのは、単なる未来への絶望ではなく、「どうせ絶望なのだから、みんなが人生をもっと好きに生きればいい」という想い、ただそれだけなのです。(それが難しいですが)

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