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親の願いは子の創造性を奪うかもしれない

2020/10/28(水)の日記

私の親の意識の内には,〈進学→ 就職→ 結婚〉という、典型的なライフ・フローが確然として築かれているようで、それは直接口にせずとも、言葉の端々からひしひしと滲み出てくるようだ。こちらはそれに合わせるように話をしないと、機嫌を見る見る悪くするから、嘘ではないが本当でもないようなことを喋らないといけなくなる。一向に清々しくならなくて、胸中のどこかに灰色のスモッグがいつまでも漂っているような感— 可視化できないバイアスに囚われていることに無自覚の人間は,(私も含めて)実に多いけれども、せめて私だけでもそのことに意識的でいたい、と苛立つほどに思う。親が子に何かを求めてしまうことは、一見まったく自然なことにしか思えないようだが、ある意味では、私には不幸なことにも思える。本来人間とは、当人の気構え次第で、どのようにもあれるはずだ。しかし、広い意味でいう環境が、暗に偏ったフレームワークを強いてしまうことがある。そのことに意識的であるだけでも、何らかのタイミングでは精神的救いとなるのだが、ときに親の願いが、子の創造性を抑制してしまうから悲しい。周囲の目にはこの現象は、教育熱心な親と柔順な子とに映ってしまう点が、誠に厄介である。

子には本当は、何も望まないのが正当かも知れない。親から子へ与えられる愛は、悉く無条件であることが、純・理想である。ただ温かく見守る……そうして、より創造的なあり方へ向かえる手助けをするに徹す— 決して子を親自身の自己実現の道具としてはならないはずである。そこで、これを無力な理想論としないためにも、私たち一人ひとりにできることは何かと考えたい。僭越な一案としては、やはりそのことに「意識的であること」、これが至極妥当な初歩でなかろうか— 目に見えるような実践ができなくとも、全然構わないでないか。「そのことは知ってますよ、分かってますよ」と(せめて内心で)言えるだけでも、より多様な人類社会に向けての立派な一歩となる。というよりきっと、寧ろそこからしか平和はのぞめない。無知であることが未知であるのは、とても恐ろしいことだ。

何かを望むことは、何かを知ることから始まる、といったらそれは過言だろうか。人間に愚かなところがあるとすれば,「私は何も知らない」,「私は造られた”思込み”で成っている」,「私は狭い世界へ自ら入り込んでいる」とは、容易に認められないところだろう。無論、それらは人間を人間たらしむを利することである。すなわち、ある種、生得的な認識の機構とも呼べるものに頼り、人間はそれらしい成長をすることを自ら可能にしている。が肝心なのは、そのことをも自認することだ。その重要さに気付いていながらも認められない……そのような、覚束無い営みの反復が、蓋し人間の歴史であり現況ではなかろうか。然るに、ともすると、人間とは何とも愛らしい存在なのである。

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