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市民税の初納税を前に

 私は今月、市民税をおそらく初めて納める。今年の春から私は学生でなくなった。(学生のかんに住民税を納めた記憶はない。)一昨年から労働に従事し始め、それから所得税などを納めようになったが、これに加え市民税ならびに県民税を、このたび納付することになった。アパートに届いた当局からの封書を眺め,「そうか、市民税か」と、納税の重みをしみじみ感じた── 社会人の一人として認められたような気がした。

 人々の納める税金によって、社会(の制度/システム)は維持される── 少なくともここ日本において、原則として国民の義務であるとされる。税金の使途について、選挙で決まった首長らが議会に諮って定め、その下で従事する自治体職員らにより実際に活用されていく。義務として納税しても、どのように活用されているのかよく知らない、という人たちは少なくないだろう── 私もその内の一人になろう。

 ところで、議会議員や職員が税金を不正使用したことが、報道においてよく注目される。一方、公共に役立った/役立っている用いられ方が市民から着目されることは、私の印象としては少ない。税金に依り、本来はその目的からして、自身を含む構成員皆の生活を豊かにしていくという考えが、私たちのなかで広く共有され理解されていなければならない。納税を単なる義務としか多くは捉えておらず,「あのような場面でちゃんと役立てられているのだな」などと理解し、ある意味仕えるような気持で納税することは、まるで夢のような話;納税を喜びとするぐらいの方が、きっと望ましい。然るに、実際はほぼその逆で、納税を嫌悪する人々が多いのでないか。
心理学的にいうネガティヴィティ・バイアスを根拠の一つに、よく目に留まるのは、市民に選ばれた人らによる不正や汚職だと言えよう。例えば、ジャーナリズムは行政を厳しく監視するのが仕事の一つであるから、行政の内に蔓延る悪を暴露することは肝要なこと。だが、税金が正当に公共の福祉の促進に用いられている例も、充分に報知しなければならない。でなければ、納税への嫌悪感は一向に拭われないだろう;どれだけ政治家や公務員が実直に服務しようと、行政への不信感が薄まることはほとんどないだろう。
無論、私たち市民には、税金の使途への関心と、積極的に知ろうとする意識を養うことが求められる。それは納税者である市民の一つの務めだろう。私たちの手で社会を創っていこう!と勇む精神が、現代では全体的に欠けているかも知れない。

 今私たちが生きる社会が、将来に望みを強く持てない社会だとしたら、それを創っているのは誰だろうか。社会とは共創していくものであり、誰かに委託して創るものではない。執行者を批判だけして満足するような者を頻りに見掛けるが── とりわけインターネット上で── その批判したくなる者を選んでいるのは誰なのか。(ひょっとしたら、批判ばかりする者は、投票すらしていないかも知れない。)自分が社会の構成員であるという意識に乏しく、不満を他者(特に構造の上位に立っていると見受けられる者)に打つけるという例には、私たちは充分な注意を払いたい;結局のところ、社会の安定を損ね、自分に跳ね返ってくるということを想像しなければならない。これは私たちの思う以上に、本のちょっとしたことだ。社会の構成員は多数であるから、その本のちょっとしたことが累積すれば、大きな変革になり得る。しかし、その本のちょっとしたことが、私たちにはなかなかできない。どうしてそうなのかは、人それぞれで多様な意見があろうが、私もそのことについてはひきつづき思量していきたい。

 市民税の納付期限は── 全国の自治体で同様かも知れないが、少なくとも── 私の場合は今月末だから、それまでに忘れずに納めよう。


※「吐露ノート」24篇目(2020年6月20日(土)執筆)より

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